グムンデンの思い出①
学生時代に、オルガンの勉強にオーストリアへ行きました。

今回は、このオルガン旅行の思い出を書こうと思います。


わたしは、オーストリア・バロック・アカデミーというサマースクールに参加しました。
アカデミーを主宰するのは、ウィンナー・アカデミーという古楽器オーケストラを率いるオルガニスト、ハーゼルベック先生です。


アカデミーはオーストリア、ザルツカンマーグート地方のGmunden(グムンデン)で行われました。


グムンデンは森と湖に囲まれたリゾート地で、トラウン湖畔にSchloss Ort(オルト城)が建っています。

この白壁とタマネギ屋根の建物に、オルト城の礼拝堂があります。

湖に浮かぶ島に建てられていて、ザルツカンマーグートで最も古い建物の一つです。


遠くから眺めると、湖の上にお城が浮かんでいるように見えます。とても美しいですね。

この湖の城は909年にすでに建っていて、1626年の火災で焼失後、現在の形に再建されたそうです。


湖の城と橋でつながった陸側のお城に、わたしたちアカデミー生が宿泊しました。

バロック・アカデミーでは、名前の通り、古楽奏法を勉強します。

声楽科、弦楽科、通奏低音科といろいろあって、わたしはオルガン科を受講します。

オルガン科は、ドイツ人のエッスル先生、アメリカ人のジェームズ先生、日本人のアイ先生に指導を受けました。

アイ先生は、その当時から現在までイタリアを拠点に活動されています。


声楽、弦楽、チェンバロなどは、オルト城内で講習を受けますが、オルガン科はグムンデン各地の教会をめぐり歩いて講習を受けました。


グムンデンの思い出②

わたしたちはグムンデンの街中から郊外まで、さまざまな教会にお邪魔して、レッスンを受けました。

教会によって、それぞれオルガンが造られた年代や様式、音色など異なり、とても面白かったです。



こちらは、トラウン湖畔にあるPfarrkirche Traunkirchen(トラウンキルヒェン教区教会)の祭壇です。

見てください、このバロック様式の豪華な装飾!!

カトリック教会は、マリアや天使や聖人の像が飾られていて、金ぴかなのが多いですね。


マリア崇拝や聖人崇拝には詳しくないのですが、祭壇画は「聖母戴冠」だと思われます。

鍵を持っている聖人像がペテロ、書物と剣を持っているのがパウロでしょう。



トラウンキルヒェン教会のオルガンは、礼拝堂の2階に設置されています。

1階の会衆席に座って聴くと、オルガンの音が天から降ってくるように感じられます。

ヨーロッパの教会では、このような造りが多いです。

オルガンも天使の像で飾られていますね!



こちらのオルガンでアイ先生とジェームズ先生のレッスンを受け、J.S.バッハのトッカータとフーガ ニ短調 BWV565を弾きました。



教会の外観は、オルト城と同じく丸屋根でした。

壁のフレスコ画に歴史を感じますね。


トラウンキルヒェン教会の歴史は、西暦632年に建てられた修道院までさかのぼるそうです。1327年の火災で焼失した後、ベネディクト会によって再建され、1632年の二度目の火災の後、修道院を引き継いだイエズス会が現在まで残るバロック様式の教会を建てたそうです。1773年に修道院は解散し、教区教会となりました。


グムンデンの思い出③

グムンデン市内のEvangelische Pfarrkirche(福音教区教会)も訪れました。

カトリック教会の祭壇と比べて、プロテスタント教会らしく落ち着いた雰囲気ですね。

ステンドグラスが美しいです!



この教会のオルガンも2階にあります。

オルガンの装飾もシンプルで素朴ですね。パイプがアーチ型に配置されていて、壁のステンドグラスが見えるように設計されているのが見事でした。



オルガンの向こうに見えるステンドグラスが、こちらです。



竪琴を持っている王冠の男性なので、ダビデではないかと思います。

細やかな植物模様が美しいですね。



ちなみに、オルガンの設置されている2階へ上がるには、こんなに狭い階段を登ります。



教会の外観はネオゴシック様式ですね。

プロテスタントであったヴォルフ家の支援で、1871年から1876年までに建造されたそうです。


ザルツカンマーグート地方のほかの町と同じように、グムンデンでも宗教改革と対抗宗教改革(再カトリック化)のせめぎ合いで、この教会が建てられる前には血なまぐさい闘いの歴史があったそうです。

1550年から1624年にはグムンデンに福音派の牧師がいましたが、1599年に教区教会が再カトリック化され、福音派は市壁の外に教会を建てました。1626年、住民はカトリック信仰を公言するか、国を離れるよう求められ、オーバーエスターライヒ農民戦争へと至ります。グムンデン市の門前にある町では2000人以上の人々が反政府側で亡くなり、反乱は鎮圧されました。前回ご紹介した、近くのトラウンキルヒェン修道院をイエズス会が引き継いだのは、この対抗宗教改革の流れです。

1781年、皇帝ヨーゼフ2世が寛容令を出し、プロテスタント信仰を公言しても生きていけるようなり、ハノーバー家が1860年代半ばからグムンデンで亡命生活を送るようになったことで、プロテスタントの信徒が増えていったそうです。


こちらの教会には昼間だけではなく、夜もお邪魔して、翌日のレッスンに向けて練習に励みました。


グムンデンの思い出④
オーバーエスターライヒで最も古いカトリック教会の一つ、Pfarrkirche Altmünster(アルトミュンスター教区教会)にも訪れました。



アルトミュンスター教会の歴史は8世紀に建てられた修道院にまでさかのぼるそうです。

1150年頃にロマネスク様式の教会が建てられ、八角形の塔はその当時のまま今も残っています。

15世紀後半にゴシック様式の礼拝堂が塔の隣に建て増しされました。写真を見ると、建材の違いがはっきり分かりますね。



高祭壇はネオゴシック様式、左側の祭壇はバロック様式、説教壇はロココ。

時代の異なる様式が同時に並んでいて、この教会の長い歴史を感じさせますね。



ロマネスク様式のアーチ型のステンドグラスが美しいですね!



塔には四つの窓がありました。



オルガンは19世紀後半の制作だと思われます。



教会の外壁に、修道院時代の壁の一部が保存されていました。

考古学的に貴重そうですね。


グムンデンの思い出⑤
ルッツェンモースのプロテスタント教会、Evangelische Pfarrkirche Rutzenmoos(福音教区教会)では、エッスル先生のレッスンを受けました。



ルッツェンモースのオルガンは、1986年制作の新しいオルガンでしたが、様式は北ドイツ楽派のバロック・オルガンだと思われます。



レッスンの曲目は、トッカータとフーガ ニ短調 BWV565でしたが、エッスル先生は以前に指導を受けたアイ先生と異なる作品解釈をされており、何か言われる都度、修正しながら弾いていきました。


オルガンの鍵盤はふつう二段あるので、一段に大きめの音色、もう一段に柔らかめの音色を入れることが出来ます。それを利用し、あるフレーズを弾くときに、アイ先生は鍵盤を交互に入れ替えてエコー(こだま)のような効果を出そう、と言われました。

一方、同じフレーズをエッスル先生は、小さい音から大きい音に途中で鍵盤交代して、クレッシェンド効果を出そう、と言われるのです。

するとレッスンの途中にもかかわらず、近くで見ていたアイ先生が、エッスル先生に対して解釈の違いの理由を意見を戦わせ始め、互いにゆずらず、わたしはどちらの指導を聞けばいいのか混乱しました。

今思えば、プロのオルガニスト同士の作品解釈の一端を垣間見ることが出来、とても貴重な経験でした。


このあと、アイ先生は、「先生によって違うことを言われて混乱するだろうけど、全部を取り入れる必要はないから、いろいろなアドバイスを受けて、最終的には自分の音楽を作りなさい」と言ってくださいました。



教会の内部は、檜材の丸天井が素朴で落ち着いた雰囲気です。

光あふれていますね。



教会は1783年に建てられ、塔と礼拝堂が19世紀後半に建て増しされたそうです。


ちなみにエッスル先生は、即興演奏の名手なのです!!

アカデミー期間中に、エッスル先生のオルガンコンサートがアルトミュンスター教会で開かれ、初めて聴いてすごくびっくりしました!

スクリーンに古いモノクロのサイレント映画を上映して、その映画に合わせて、オルガンを即興演奏するというチャレンジングなコンサートです。鍵盤を弾きつつ、ストップを動かして音色を変えつつ、シンバルや太鼓などの効果音を鳴らすという、エッスル先生の超人的な即興演奏に感動しました。


別の日に、エッスル先生の即興演奏の講義も受けました。いきなり「今日はドリア風で弾いてみよう」などと言われ、今では教会旋法の一つにドリア旋法と呼ばれる音階があると知っていますが、当時は意味が分かりませんでしたね。


グムンデン、こぼれ話
グムンデン滞在中はアカデミーのスケジュールが詰まっていて、自由に街を観光できる時間がほとんどありませんでした。

そんな中で、グムンデン焼きの工房、Gmundner Keramik(グムンドナー・ケラミック)に行きました。



グムンデンは陶器の名産地なのです。考古学的発見によれば、1492年にはすでにグムンデンで陶器が生産されていたそうです。

グムンドナー・ケラミックは1903年に設立された歴史ある工房。グムンドナー陶器は、Grüngeflammt(緑の炎)と呼ばれる、この緑色のデザインが伝統です。



クラシックデザインの製品は、ぽってりしたフォルムに小花柄が特徴です。現在でも製品の絵付けは全て職人さんの手作業なのだそうです。



オーバーエスターライヒで最も有名な山の一つ、Gmundnerberg(グムンデン山)にも訪れました。

標高884メートルなので、高尾山よりは高いですね。



こちらはグムンデン山の山小屋レストランでいただいた、名物料理です。

ステーキの隣にあるのは、ドイツやオーストリアで伝統の肉団子、クヌーデルだと思われます。クヌーデルはひき肉とジャガイモの団子で、パン代わりの主食として食べるそうです。ふつうに茹でたジャガイモと比べると、このクヌーデルの巨大さが分かりますね。これで一人前です。



ちなみに、わたしたちはオルト城に宿泊しましたが、お城の内部は簡易宿泊施設にリノベーションしてありました。日本で言う、校外学習などで寝泊りする青年の家に似ています。お城の食堂も学食に近かったですね。



お城の夕食は毎日このようなメニューで、ここでもクヌーデルが巨大です。パンはないのです。山小屋レストランが肉多めの団子だったのに対して、こちらはジャガイモのみの団子ですね。朝食は食堂でホットミルクとシリアルを毎日食べていました。


ウィーンの思い出

最後に、ウィーンでの思い出を書きたいと思います。


往路はウィーンで2泊し、王宮ケルントナー通りなどをぶらぶら歩き、シュテファン大聖堂の礼拝を見学しました。

美術史美術館でブリューゲルの『バベルの塔』をはじめとするバロック期の名画や、ベルヴェデーレ宮殿でクリムトやエゴン・シーレの19世紀末の名画を見ました。

シェーンブルン宮殿では、オーケストラの野外コンサートにちょうど行き当たり、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のテーマ曲を聴きました。


ウィーンの街中を歩いていると、あちこちでコンサートの看板が目に入ります。

1日目の夜は、ウィーンで最も古いカトリック教会の一つ、Michaelerkirche(ミヒャエル教会)でオルガンのコンサートを聴きました。

コンサートの後に、Wiener Rathaus(ウィーン市庁舎)まで歩くと、フィルムフェスティバルが行われていました。市庁舎前に巨大スクリーンが設置され、たくさんの人々が野外で映画を楽しんでいました。


2日目の夜はケルントナー通りにある、Malteserkirche(マルタ教会)でオルガンとトランペットのコンサートを聴きました。



マルタ教会は、カトリックの騎士修道会であるマルタ騎士団の教会です。

赤地に白い十字の旗が、マルタ騎士団の団旗です。

1205年から1217年に、貧しい人々と十字軍を支援する目的で建てられ、15世紀半ばに現在のゴシック様式の礼拝堂が再建されたそうです。

祭壇画は、オーストリアのバロック画家ヨハン・ゲオルク・シュミットによって1730年に描かれました。洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼を描いていますね。



壁にはマルタ騎士団の団章が掲げられています。

ぶらっと立ち寄った教会が、これほど歴史ある建物だとは驚きでした。



オルガンは1750年頃に制作され、この歴史的な外装とパイプをそのまま活かして、1950年に修復されたそうです。


コンサートの後、プラーター公園まで足を延ばし、映画『第三の男』にも登場した大観覧車に乗りました。

この年、オーストリア・バロック・アカデミーに参加する日本人はわたしを含め5人で、日本から同行したメンバーと、ウィーンで合流予定のメンバーがいました。2日目にザッハートルテで有名なホテル・ザッハーで待ち合わせて、無事に全員集合することができました。あの頃、携帯電話はあったけれど、まだスマホはなく、待ち合わせに成功したのは奇跡だな、と今となっては思います。



翌朝、ウィーンからグムンデンまで電車で移動します。

ウィーンから西に約200km、ザルツブルクの近くにグムンデンは位置します。

車窓から田園風景を眺めていると、車掌さんが検札に来て、わたしたちが乗っている車両が間違っているから、次の駅で降りるように言われました!

びっくりして次の駅で急きょ下車しましたが、田舎の見知らぬ駅なので、自分たちがどこにいるのか全く分かりません。

ヨーロッパの長距離路線では、途中で車両が切り離されて、違う行き先に向かうことがよくあります。このとき、わたしたちは正しい列車に乗ったつもりだったけれど、車両が間違っていたようです。日本で言えば、はやぶさに乗ったつもりで間違ってこまちに乗っていたようなものです。このとき、もしそのまま乗っていたら、どこか違う国に着いていました。

その後、後続の別の列車に乗って、幸いにもグムンデンまでたどり着くことが出来ましたが、この途中下車は忘れられない思い出ですね。


アカデミーの日程を終え、復路はザルツブルクを経由して帰国しました。


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節分の鬼と豆

五来重『仏教と民俗 仏教民俗学入門』よりまとめ


平安時代には方相氏の追儺はあったが鬼を追うことはなかった。

紀貫之『土佐日記』では、イワシではなく「なよし」(鯔)の頭と柊を門口に挿しているが、鬼も豆もなかった。


平安時代の末の『中右記』に大治5年正月の円宗寺修正会鬼走(しゅしょうえおにはしり)として、鬼が出てくる。鬼とともに龍天や毘沙門天も走る。

奈良の薬師寺と法隆寺の修二会(しゅにえ)には、鬼と毘沙門天が走る行事が今も残っている。


今日のような節分の鬼というのは、この仏教年中行事の、修正会と修二会の呪師(しゅし)芸からおこった。この鬼は悪者ではなく、逆に悪魔払いや厄払いの修法をした。


豆を打つというのは、室町時代の『花営三代記』(応永32年)に書かれているのがはじめだが、今日のように鬼を打つことはない。

『塵添壒嚢鈔』では、京都の美曾路池(美泥池)の鬼穴を封じるために、三石五斗の大豆で鬼を打ったという伝説が書かれている。美泥池の鬼塚は、かつては付近の村人が節分に炒り大豆を紙へ包んで塚にささげていたが、現存していない。愛知県の滝山寺の鬼祭で、鬼塚に炒り豆をささげるのも、同じ意味の祭りである。


京都の近郊では、厄年とされる19歳の娘は大豆20粒を紙に包んで体をなで、厄を豆にうつして、深夜に人に見られぬように、道の辻へ捨ててくる、という風習があった。

先祖が鬼だと伝えられている九鬼家では、家老が炒り豆を包んだ紙で当主の体をなで、外へ捨てるという風習があった。


節分の豆は鬼を追いはらうものではなく、厄をうつしはらうものだった。


同じく鬼を先祖と伝える、但馬香住町(現、兵庫県)の旧家、前田家では、節分の夜に「鬼むかえ」という行事をする。奥座敷の床の間で「鬼の膳」をそなえ、「鬼の寝床」をしいてお迎えする。これは節分の夜に祖霊をむかえまつる先祖祭である。


節分の年越は、旧暦の大晦日の年越よりも古い年越の行事だった。『徒然草』十九段には大晦日に先祖の霊が鬼の姿でおとずれたことが書かれている。節分の鬼は、じつは先祖の霊のおとずれであった。

しかし、仏教が鬼を邪悪なものとした影響で、今や先祖の霊が厄をはらってやろうと子孫に近づいたとたん、豆をなげて追いはらわれる。


京都の壬生寺では節分に、狂言「節分」が無言で演じられる。節分の夜に後家が一人で暮らしている家に鬼がしのびこむ。後家さんは酒をのませて鬼を酔いつぶし、打出の小槌と隠れ蓑を取り上げる。そのあげく、豆を打って鬼を追い出してしまう、という筋書き。



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【感想】

中国の文化では「鬼」は死者の霊魂を意味する。古代の日本には、

鬼=「疫病や災禍をもたらすもの」

鬼=「先祖の霊」

という文化背景の異なる二種類の考え方が伝わっていたのではないか。そのうち、「鬼=先祖の霊」とする文化は、一部の旧家で風習が残るのみで、現代の日本では完全に廃れてしまった。

今日の節分の鬼は「先祖の霊」ではなく、「疫病・災禍をもたらすもの」を意味しており、追いはらわれる存在である。


豆が自分の厄をうつす身代りであるなら、その豆を食べてはだめなのでは? なぜ現在のように年の数だけ豆を食べると健康長寿という意味に変わったのか、疑問が残った。


2022/02/03 22:07

「贖罪」と「贖い」

「贖罪」と「贖い」という言葉は聖書によく使われており、キリスト教にとって核心とも言える重要な教理です。

そのため、外国語翻訳の過程で、明治以降に生み出された新語のように思われるかもしれませんが、「贖い」という言葉自体は、古くから使われてきた日本語です。


古語の名詞「あがひ」(贖ひ)※古くは「あかひ」

意味「つぐない」

用例「酒・くだ物など取り出ださせて、あがひせむ」(宇治拾遺物語)

動詞「あがふ/あがなふ」(贖ふ・購ふ)

意味は、①金品をさし出して罰をのがれる。②買い求める。

※もと①の意味で、②は後の用法

例解古語辞典(三省堂)より


「贖罪」と似た言葉、「罪滅ぼし」は仏教用語の「滅罪」を日本語にした表現が名詞として定着したのではないかと思います。

用例「聖の名をさへ付け聞こえさせ給ひてければ、いとよし。私の罪もそれにてほろぼし給ふらむ」(源氏・浮舟)


19世紀の聖書翻訳者(主にアメリカ人宣教師たち)は、聖書中の意味が異なる多くの単語に対して、「贖い」もしくは「贖罪」を訳語に当てており、その訳語が現代まで定着しています。

しかし、日本語古語の「贖い」と聖書の「贖い」が同じ意味であったという保証はなく、意味が似ているという程度だったのでは? と思います。


「贖い」という訳語が、もともとのヘブライ語とギリシャ語ではどうなったのか、気になったので、少し調べてみました。

旧約聖書で、「贖い」「贖罪」「あがない」と訳されているヘブライ語は、三つあるようです。


①パーダー:「買い戻す」の意味。動物や人間を金品によって買い戻すこと。日本語聖書では同じ単語を「賠償金」と訳している箇所もある。


②ガーアル/ゴーエル:「買い戻す」の意味。パーダーとの使い分けが分かりにくいが、家や畑などの財産を取り戻す場合、奴隷の自由を買い戻す時の行為を指す言葉。出エジプトやバビロンからの解放など、神がイスラエルを解放する、助け出す、という救いのわざを表現する言葉。


③カーファル:「覆う」の意味。

例1:「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。」(旧約・レビ記、新共同訳)

↑この「罪を贖う」のヘブライ語がカーファルで、直訳すると「罪を覆う」となる。


例2:神はノアに対して箱舟の「内側にも外側にもタールを塗りなさい。」(創世記)と言われる。この「塗る」という訳語のヘブライ語も名詞形「コフェル」で、直訳すると「タールで覆う」となる。


これら三つのヘブライ語をなぜ日本語で訳し分けないのでしょうか?

さらに新約聖書では、「贖い」「贖罪」「あがない」と訳されているギリシャ語は多数あります。


①リュトロン:身代金の意味。

例:イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ)


②アポリュトローシス:身代金を支払うことによって救い出すとの意味。

例:「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ人への手紙)


③ヒラステリオン:「なだめる」の意味

④アゴラゾー:「買う」の意味(アゴラは「市場」の意味)

⑤カタラッソウ:「和解」の意味


旧約の伝統の上に新約が書かれていることを考慮すると、古代のヘブライ語の「カーファル」に相当する意味で、ギリシャ語の「リュトロン」や「アポリュトローシス」が使われていると言えます。

これらの異なる言葉を、現代の日本語では「贖い」「贖罪」「あがない」と訳しているのですね。

「贖罪」は「買い戻す」こと、「身代金」「賠償金」を支払うことで救い出すことを意味するので、罪が消滅したわけではなく、「滅罪」「罪滅ぼし」とは意味が異なります。

最初に「贖罪」と訳した翻訳者は、正しく言葉の意味をつかんでいたのですね。


2022/02/04 00:54

キリシタン訳「主の祈り」
マタイによる福音書 6章9節-11節


てんにましますわれらが御おや

御名がたつとまれたまへ

御代きたりたまへ。

てんにおひてごおんたーでのままなるごとく

ちにおひてもあらせたまへ。

われらが日々の御やしなひを今日われらにあたへたまへ。

(「どちりな・きりしたん」に掲載されている1592年頃の日本語訳)


天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように。

御国が来ますように。

御心が行われますように、

 天におけるように地の上にも。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

(新共同訳)


大河ドラマ「真田丸」第45回では、キリシタン武将の明石全登がこのキリシタン訳「主の祈り」を唱える場面が描かれていた。

キリシタン時代の「主の祈り」は、ポルトガル語の入り交じった訳文になっている。


「ごおんたーで」という言葉は、ポルトガル語のvontade(意思)をそのまま音訳して平仮名表記し、尊敬の意味のをつけ、「御おんたあで」と訳出したもの。


ポルトガル語のSeja Feita a Vossa Vontade(あなたの意志が行われますように)という文だが、「あなた」すなわち「神の意志」を表現する言葉がキリシタン時代の日本語にはなかったのだろうか。

「ごおんたーでのままなるごとく」という訳文からは、翻訳者の苦心が窺える。現在では「みむねが」「御心が」という表現が定訳で、新共同訳では「御心が行われますように」と訳出している。


また、このキリシタン訳で、神への呼びかけを「父よ」ではなく、「御おや」(御親)と訳出していることは、注目すべきだ思う。「親」という言葉には「父母」の意味も含まれている。

さらに、「御国」(みくに)ではなく、「御代」(みよ)という訳語は、領土的な概念ではなく「神の支配」を表現する名訳だと思う。


2022/02/11 14:16

кликушаは「おキツネさん」なの?

『カラマーゾフの兄弟』で、イワンとアリョーシャの母ソフィアが精神病を患ったことについて、亀山郁夫訳は「おキツネさん」、原卓也訳は「癲狂病み(てんきょうやみ)」、中山省三郎訳では「憑かれた女(つかれたおんな)」と訳しています。


Впоследствии с несчастною, с самого детства запуганною молодою женщиной произошло вроде какой-то нервной женской болезни, встречаемой чаще всего в простонародье у деревенских баб, именуемых за эту болезнь кликушами. От этой болезни, со страшными истерическими припадками, больная временами даже теряла рассудок. 

(Ф. М. Достоевский, Братья Карамазовы, Часть первая, Книга первая, III

Второй брак и вторые детиより)


この箇所は、ソフィアは「神経性の女性特有の病気」(нервной женской болезни)になったと書かれており、それは村の女性たちの間ではкликуша(クリクーシャ)と呼ばれる病気(у деревенских баб, именуемых за эту болезнь кликушами)だと書いてあります。


このкликушаをどう訳すか問題です。


Русский Викисловарьによれば、

①ヒステリーに苦しんでいる女性、けいれん、叫び、嘆き、激しいジェスチャー

②ヒステリックにふるまい、大声で意見を述べる人(政治家、歌手、宗教家、山師などを指して)


кликушаの語源は、крик「叫び」からできています。つまり「叫ぶ女」ですね。

関連する言葉にкликушествоがあります。意味は、

①けいれん、叫び、嘆き、激しいジェスチャーで現れる神経性ヒステリー病(通常は女性) 

②悪魔、悪霊が人に入ったことによって引き起こされる叫び、激しい身振り、けいれんを特徴とする宗教的理由による精神病。


②の意味は、映画エクソシストと同じです。この意味があるから、亀山訳は「おキツネさん」と訳したのかもしれません。

しかし、キリスト教を前提とする悪魔憑きと日本のキツネ憑きは文化的に意味が違うような気がします。


歴史的には、16~18世紀のКликуши(кликушаの複数形)と呼ばれる人々は、魔術の罪で裁判にかけられ、拷問を受けたそうです。

集団ヒステリーが魔女裁判につながったアメリカ・セイラムの魔女裁判と似ていますね。


『カラマーゾフの兄弟』の話に戻ると、ソフィアは「悪魔憑き」である、という意味で作者はこの単語を使ったのでしょうか?

時代的には、魔女裁判は過去の遺物ですよね。

この当時最新の精神医学では、ヒステリーは女性特有の精神病と考えられていました。そのため、作家は「神経性の女性特有の病気」になったと書いた上で、その病気の修飾文として、(無知な)農村では「悪魔憑き」と揶揄される病気だが、と説明を付け加えたのではないでしょうか。


このように読み解くと、「おキツネさん」と「癲狂病み」と「憑かれた女」、どの訳語がしっくりくるでしょうか。

個人的な意見では、「憑かれた女」が悪魔か悪霊に取り憑かれたかのような状態という原語の意味を一番正しく伝える訳語ではないかと思います。

何によって取り憑かれたのかは原文に書いていないので、動物の悪霊かどうか断定できないのに「おキツネさん」と訳すのは、意訳しすぎな気がします。



ちなみに、スメルジャコフの母リザヴェータは、юродивый(聖なる愚か者)のような存在としてコミュニティの中で受け入れられています。

この言葉の意味は深くて、簡単に言うと、「あらゆる世俗的な価値観を拒否し、禁欲的な生活を送り、表面的には狂気に見えるふるまいをするが、内面は神聖な知恵を持っている人」という意味です。(Викисловарьによる)

精神病や狂気に当たる言葉は別な単語があるので、юродивыйの狂気は精神病ではなく、信仰実践と考えられているようです。

したがって、「おキツネさん」になったソフィアと「聖愚者」に近いとされるリザヴェータは、全く異なると立場だと言えますね。


2022/02/19 15:58

ドンバスの住民がロシアへ避難

"Детям страшно": жители Донбасса бегут в Россию:

(18:30 21.02.2022, РИА Новости)より抄訳


「子供たちは怖がっている」:ドンバスの住民がロシアへ逃げる

ドンバスの状況が悪化したため、DPRとLPRの当局は、ロシアへの女性、子供、高齢者の一時的な避難を開始した。

ドンバスで砲撃が再開された時、彼らは全てを捨てて去らねばならなかった。「2014年から2015年にかけては地下室に座っていたが、今はもう心が耐えられない…」と、避難を決意した人々は言った。

「子供たちは怖がっています。私は子供たちにすべてを伝えたくはありませんが、彼らは自身の目で多くのことを見ています」とドンバスの住民はため息をつく。

難民を最初に受け入れたのはロストフ地方である。ここに一時的な宿泊所が配備され、すばやく国境を越えるための条件が整えられた。

月曜日の朝までに、6万人以上が国境を越えてロシアへきた。8000人がロストフ地方を離れ、近隣の地方に移っていった。

避難民を乗せた列車はボロネジ、クルスク、ヴォルゴグラード、ニジニ・ノヴゴロド、サラトフ、モスクワ、ウリヤノフスクの各地域へ向かった。

ロシアの43の地域で、ドンバスからの避難民を受け入れる準備ができていると述べている。

ロシアに親戚がいる人々は彼らのもとへ行く。また、仮設住宅に滞在している人々もいる。

4万2千人を収容できる約400の仮設宿泊所が難民のために用意された。さらに149カ所、5万4千人分が確保されている。

ロシア大統領は、ドンバスから到着するすべての人に一人当たり1万ルーブルを支払うよう指示した。

難民には必要な組織的および法的支援が提供される。人々を安心させるためにすべてが行われてきた。

ロシアに留まるかどうかは、自国の状況次第という人も多い。



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【覚え書】

Донбасс(ドンバス)は、ウクライナのドネツクとルハーンシク地域とロシアのロストフ地域の西部が含まれる。ウクライナの石炭産業の大きな中心地(ドネツク石炭盆地およびドネツク経済地域)である。

2014年春、ウクライナ南東部の武力紛争の最中に、国際的に承認されていないドネツクとルハーンシクの自称人民共和国が独立を宣言した。


Донецкая Народная Республика(ドネツク人民共和国)

略称 DPR(英), ДНР(露)


Луганская Народная Республика(ルガンスク人民共和国)

略称 LPR(英), ЛНР(露)


【所感】

РИА Новостиの2月19日の報道によれば、ドンバスでウクライナ軍による砲撃が増しているそうです。DPRおよびLPRと、ウクライナの治安部隊との間で大規模な戦闘に発展するかは分かりませんが、何が起こってもおかしくない状況です。

2月21日の報道では、すでに6万人以上のロシア系住民たち、特に女性や子供、高齢者がロシア側へ避難したとのこと。どうか逃げられるなら逃げてほしい。砲撃に巻き込まれて命を落とす一般市民が少なくなることを願います。


2022/02/23 22:39

プーチン大統領演説テキスト
Текст обращения президента России Владимира Путина

(09:29 24.02.2022, РИА Новости)より抄訳


ドンバスの人民共和国はロシアに助けを求めています。

これに関して、国際連合憲章第7編第51条に従い、ロシア連邦院の認可を得て、本年2月22日に連邦議会が批准したドネツク人民共和国およびルガンスク人民共和国との友好および相互援助に関する条約を遵守するにあたり、私は特別軍事作戦を実施する決定を下しました。

その目的は、8年間キエフ政権による虐待や大量虐殺にさらされてきた人々を保護することです。そしてこの目的のために、我々はウクライナの非軍事化と非ナチ化に努め、ロシア連邦の市民を含む民間人に対する数々の血生臭い犯罪を犯した者たちを裁くことになります。

同時に、我々の計画にはウクライナの領土を占領することは含まれていません。


(中略)


親愛なる同志たちよ!

あなた方の父、祖父、曾祖父がナチスと戦い、我々の共通の祖国を守ったのは、今日のネオナチがウクライナで権力を握るためではないのです。あなたはウクライナ国民に忠誠を誓ったのであって、ウクライナから略奪し、まさにこの国民を虐げている反人民的な政権に忠誠を誓っているのではないのです。

その犯罪的な命令を実行してはなりません。すぐに武器を置いて、家に帰ることを強く勧めます。はっきりさせておきたいのは、この要求に応じるウクライナ軍のすべての隊員は、自由に戦場を離れ、家族のもとへ帰ることができるということです。

繰り返しますが、流血の可能性についてのすべての責任は、ウクライナの領土を支配している政権の良心にかかっていると私は主張します。


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【所感】

2月24日、プーチン大統領は演説で、ドンバスでの特別な軍事作戦を決定したと発表しました。

ドンバスからロシアへの住民の避難が続いており、すでに6万人以上が国境を超えたという21日の報道を昨日読み、非常に迅速で組織的な集団疎開に驚きました。

今日の報道を聞いて、自称人民共和国は、本格的な軍事作戦が予定されていることを事前に分かっていたからこそ、これほど迅速に民間人を避難させたのだろうな、と思いました。


演説で、プーチン大統領はウクライナの現政権をナチスに喩え、ネオナチと呼んでいました。その上で、ウクライナを「非ナチ化」しなければならない、と主張しています。

これまでも、大統領演説では悪の象徴としてナチスの喩えがよく使われていました。

ここで言うナチスやネオナチは、ファシズムやファシストと同じで、極右、民族主義者、人種差別主義者などを指しています。

2014年からロシアの大義名分は、ウクライナにおけるロシア系住民への迫害を阻止すること、ロシア系住民を守ることです。今回の軍事作戦も、ウクライナの領土を占領するためではなく、ドネツクとルガンスクの自称共和国を助けるためだ、と主張しています。

ウクライナ政権側が差別主義者で、自分たちは虐げられた側である、という理論なので、政権をナチスに喩え、「非ナチ化」しなければならない、という主張になります。

こういう論理なので、ウクライナのゼレンスキー大統領がユダヤ系ウクライナ人の家庭の生まれだということ(虐げられた側の出自を持つこと)は、プーチン大統領にとっては関係ないわけです。


ロシア側の論理は、第二次世界大戦において日本がアジア諸国を侵略することを正当化するために、侵略ではなく、欧米の植民地からの解放であると主張していたことと重なりますね。


2022/02/24 23:18

「我は神より離れず」聴き比べ

ブクステフーデのコラール前奏曲「我は神より離れず」BuxWV220、聴いていて、とても落ち着く。素朴で良い曲。


Von Gott will ich nicht lassen,  BuxWV220


われは神より離れず

そは神はわれより離れ給わず

すべての道にて我を導き給う

さもなくばわれは迷う

神はその御手をさしのべ、夕べにも朝にもわれを守り給う。

われいずこにありとも

(Von Gott will ich nicht lassen「我は神より離れず」のコラール歌詞)


「神はその御手をさしのべ、夕べにも朝にもわれを守り給う。われいずこにありとも」という歌詞がすごく良い。

ブクステフーデはとても内省的な旋律で、歌詞の一節一節をかみしめる。

いつか主日礼拝の前奏で弾きたい。



一方、J.S.バッハの「我は神より離れず」BWV658 は、ブクステフーデの素朴な美しさとは全く違った、装飾豊かな美しさ。同じコラールを題材としているとは思えないが、どちらも良い曲。


Von Gott will ich nicht lassen, BWV658 


バッハの曲は、コラール定旋律がペダル(足鍵盤)にあるので、ペダルに16フィートではなく、手鍵盤と同じ4フィートまたは8フィートの音を使ったレジストレーション。

目を瞑って音だけを聞くと、手が3本あるように聞こえる。実際には、テノール声部に定旋律がある曲は、演奏するのがとても難しい。


内省的なコラール歌詞に合わせて、落ち着いた雰囲気で曲が進むが、「神はその御手をさしのべ」という歌詞から、ぐっと曲調が明るくなるところが、とても素晴らしい。

短い曲の中に歌のメッセージが凝縮されている。バッハの絶妙な演出を感じる。


2022/03/25 23:45

デカルトとラ・メトリの「人間機械論」比較

デカルトの人間論は、身体が自動機械であるにもかかわらず、「噴水技師」(=エンジニア)としての理性的精神が必要であると主張している。その理性によって、デカルトは人間と動物を峻別している。


動物に魂がないという考えは、当時ではアリストテレス以来の常識だっただろうが、現代の動物愛護者や動物の権利論者は怒りそうだ。


一方、ラ・メトリは魂の実体性を否定し、精神を脳の働きと考えており、この考えでは人間と動物の差がほとんどない

したがって、ラ・メトリは唯物論的な一元論と言える。

現代の読者にとっては、ラ・メトリの主張の方が納得するのではないか。

しかし、18世紀に唯物論者であることは無神論者を意味するので、ラ・メトリはさぞかし生きづらかっただろう。



とは言え、自動機械でしかない人間が、倫理的な振舞をすることはどのようにして可能なのか?

そもそも、倫理的な機械というのが意味が分からないし、道徳不要説につながる、という唯物論に対する反発も共感できる。


ラ・メトリが「己の欲せざるところを人が施してくれては困るので、自分でもしてはいけない」と主張したように、個々人の幸福追求のためには、共同体の秩序の維持が必要不可欠であって、社会の道徳は不要ではないわけだ。

したがって、あらゆる超越者を否定する唯物論においては、功利主義(振舞の結果主義)の倫理だけが残ったと言える。



興味深いことに、唯物論者のディドロは、無神論者であったにもかかわらず、魂の不死を主張している。

ここで言う魂の不死とは、神の国における永遠のいのちとか、輪廻転生といった実体のある魂ではなく、死後の名声という意味である。

後世における名誉を求めることを自己の幸福追求と考えることで、現世の振舞の規範とし、社会の形成や秩序へ貢献することの必要性を導いている。

これも功利主義(結果主義)の考えを発展させたものだなと思う。

現代の世代間倫理にも通じる考え方かもしれない。


2022/03/26 13:26

アノニマスがロシア中央銀行の内部文書を公開

JUST IN: The #Anonymous collective has hacked the Central Bank of Russia. More than 35.000 files will be released within 48 hours with secret agreements. #OpRussia

(Anonymous TV @YourAnonTV, March 24, 2022)


3月24日、アノニマスが「ロシア中央銀行をハッキングした。「密約」を含む3万5000のファイルを48時間以内に公開する」とツイートした。

彼らは宣言通りに実行し、現在はわたしたちの誰もがロシア中央銀行の内部文書を見ることができる。

ただし、ファイル数があまりに膨大なため、どの文書がいかなる外交交渉の武器となるのか、一目見ただけでは分からない。

アノニマスはハッキングしたと主張しているが、中央銀行のデータベースがインターネットにつながっているとは考えにくいので、実際は内部告発なのではないか。裏切り者探しで内通者が殺されないよう、アノニマスの犯行としたのでは、と想像する。



どんな文書が公開されているのか、わたしも試しに上からひとつ読んでみた。


2_01.01.10_1.PDF(2.zip, part-1)


годовой отчет

закрытого акционерного общества

коммерческий акционерный банк Викинг

(非公開株式会社である商業銀行ヴァイキングの2009年の年次報告書)


аудитор(監査人)

общество ограниченной ответственностью ЭДВАЙС АУДИТ(有限責任会社エドヴァイス監査)


данная отчетность подготовлена русководством Банка исходя из Плана счетов бухгалтерского учета в кредитных организациях, установленного Банком России, и других норативных актов.

(これらの財務諸表は、ロシア中央銀行が制定した信用機関の会計に関する勘定科目表およびその他の規制に基づいて、当行の経営陣によって作成された。)


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この文書は、банк Викинг(ヴァイキング銀行)の2009年の会計監査報告書のようで、26頁にわたって、1988年の銀行設立以来の歴史から2009年当時の状況まで記されている。監査法人はЭдвайс Аудит(エドヴァイス監査)という、ペテルブルグにある会社。


ヴァイキング銀行は1988年に銀行免許第2号を取得し、РСФСР(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)で最初に設立された商業銀行なのだそうだ。銀行名はソビエトとスウェーデンの合弁会社に由来する。2019年時点の資産は18億ルーブル。現在もペテルブルグにある。



本文書頻出の略語をメモ。文学作品では見ることのない単語。


ЗАО 非公開株式会社を指す。株式がその創設者または他の所定の人々の間でのみ分配される会社。


ООО 有限責任会社を指す。LLCのこと。


2022/03/26 16:09

アンドレイ・クルコフ、The New Yorkerに寄稿
Что останется после вторжения России в Украину?

(Андрей Курков, March 21, 2022, The New Yorker)より抄訳


「ロシアがウクライナへ侵攻した後、何が残るのか?」

アンドレイ・クルコフ


私は1961年に生まれた。祖父の一人が亡くなり、もう一人はなんとか生き延びた第二次世界大戦が終わってから16年後のことだ。子供の頃はずっと、男の子と戦争ごっこをしていた。私たちは、自分たちのグループと「ドイツ人」のグループに分かれるようにした。誰も「ドイツ人」になりたがらず、くじ引きで誰かがゲームの中で「ドイツ人」になった。明らかに「ドイツ」は負けるべくして負けたのだ。手作りの木製カラシニコフ突撃銃を持って走り回り、待ち伏せしていた敵を「撃つ」。機関銃の弾の音を真似て「トラ・タ・タ・タ」と叫びながら。


小学校4年生のとき、学校で勉強する外国語を選ぶように言われたとき、私はドイツ語班に行くことをきっぱりと断った。「祖父のアレクセイが殺された!」と私は言ったが、誰も私にドイツ語を学ぶように説得しなかった。私は英語を勉強した。あの戦争ではイギリス人が私たちの同盟国だった。そして今、イギリス人は同盟国のままだが、「私たち」の意味だけが変わった。「私たちのソビエト」から「私たちのウクライナ」へ。


戦後、子供たちが学校でロシア語を勉強するように言われても、「ロシア人におじいちゃんを殺された!」「ロシア人に妹を殺された!」と平気で拒否するのだろうと思うと、悲しくなってくる。


きっとそうなるだろう。そしてそれは、家庭で人口の3分の1がロシア語を話し、私のような数百万人のロシア系民族が暮らす国で起こることになる。


プーチンはウクライナだけでなく、ロシアを破壊し、ロシア語を破壊している。今、この恐ろしい戦争の間、ロシアの爆撃機が学校、大学、病院を爆撃している時、ロシア語は最も重要でない犠牲者の一人だ。私は母語がロシア語であるせいで、自分の祖先がロシア人であることを何度も恥じてきた。言語には罪はない、プーチンにはロシア語の所有権はない、ウクライナを守る人々の多くはロシア語話者である、ウクライナ南部・東部の民間人の犠牲者の多くもロシア語話者でありロシア民族である、と説明しようと、さまざまな公式を考え出した。だが、今はただ黙っていたい。私はウクライナ語が流暢に話せる。会話の中で、ある言語から別の言語へ切り替えるのは簡単だ。


私はウクライナのロシア語の近い将来が見えている。今、ロシアのパスポートを破って、自分がロシア人であることを認めないロシア人がいるように、多くのウクライナ人がロシア語、言語、文化、ロシアという考え方のすべてを放棄しているのだ。私の妻はイギリス出身で、私の子供たちはロシア語と英語の2つの言語を母語としてる。お互いのコミュニケーションはもっぱら英語。彼らは今でも私とロシア語で会話しているが、ロシアの文化には全く興味がない。しかし、娘のガブリエラが時々、プーチンに反対するロシアのラッパーやロッカーの発言のリンクを送ってくれる。どうやら彼女は、すべてのロシア人がプーチンを好きではない、ウクライナ人を殺すことを望んでいるわけではないことを示すために、こうして私をサポートしたいようだ。


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『ペンギンの憂鬱』が日本でもベストセラーとなった、ロシア語で執筆するウクライナ人作家のアンドレイ・クルコフがThe New Yorkerに寄稿しました。

ウクライナで暮らすロシア語話者、ロシア系ウクライナ人たちが、自分たちのルーツであるロシアとウクライナの間で板挟みになり、どれほど引き裂かれる思いをしているかが伝わってきます。

エッセイ全文はぜひThe New Yorkerを読んでください。英語、ロシア語、ウクライナ語で読むことができます。


2022/03/28 21:46

「ゴルトベルク変奏曲」聴き比べ
J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」BWV988は、二弾鍵盤のチェンバロのために作曲された楽曲だけれど、さまざまな楽器で演奏されている。


わたしが聞き馴染みあるのはチェンバロ演奏で、グスタフ・レオンハルトのアルバムを持っている。

Goldberg Variations, BWV988 : Variation 30 - Gustav Leonhardt


しかし、「ゴルドベルク変奏曲」と言えば、グレン・グールドによるピアノ演奏のイメージが強いだろう。

Goldberg Variations, BWV988 : Variation 30 - Glenn Gould

グールドの演奏は、レオンハルトと比べると、よりシャープでテンポが速い。


意外な楽器では、ヴィオラ・ダ・ガンバのアンサンブル、フレットワークによる演奏がとてもおすすめ。

Goldberg Variations, BWV988 : Variation 30 - Fretwork

2011年録音のアルバムで、彩り豊かな音色と息の合った美しい演奏が素晴らしい。



チェンバロとピアノは鍵盤楽器という点で似ているが、音を出す仕組みが違うため、音色は全く異なる。

ピアノは弦を叩いて音を出す打楽器。

チェンバロは弦を弾いて音を出す撥弦楽器なので、実は箏や三味線と同じ仲間。

ちなみにオルガンはパイプに風を送って音を出す管楽器なので、リコーダーやフルート、トランペットと同じ仲間。


「ゴルドベルク変奏曲」は本来はチェンバロのための曲だから、音色の似ている箏で演奏するのも意外と合うのでは、と思う。


2022/04/02 23:40

ウミネコ

ウミネコとふれ合う。飛ぶ表情が格好良い。


2022/04/03 12:03

プロフィール

ロシア文学が大好きです。 2012年2月からロシア語を勉強しています。

NOVEL DAYSで活動中です。
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