デカルトとラ・メトリの「人間機械論」比較
デカルトの人間論は、身体が自動機械であるにもかかわらず、「噴水技師」(=エンジニア)としての理性的精神が必要であると主張している。その理性によって、デカルトは人間と動物を峻別している。
動物に魂がないという考えは、当時ではアリストテレス以来の常識だっただろうが、現代の動物愛護者や動物の権利論者は怒りそうだ。
一方、ラ・メトリは魂の実体性を否定し、精神を脳の働きと考えており、この考えでは人間と動物の差がほとんどない。
したがって、ラ・メトリは唯物論的な一元論と言える。
現代の読者にとっては、ラ・メトリの主張の方が納得するのではないか。
しかし、18世紀に唯物論者であることは無神論者を意味するので、ラ・メトリはさぞかし生きづらかっただろう。
とは言え、自動機械でしかない人間が、倫理的な振舞をすることはどのようにして可能なのか?
そもそも、倫理的な機械というのが意味が分からないし、道徳不要説につながる、という唯物論に対する反発も共感できる。
ラ・メトリが「己の欲せざるところを人が施してくれては困るので、自分でもしてはいけない」と主張したように、個々人の幸福追求のためには、共同体の秩序の維持が必要不可欠であって、社会の道徳は不要ではないわけだ。
したがって、あらゆる超越者を否定する唯物論においては、功利主義(振舞の結果主義)の倫理だけが残ったと言える。
興味深いことに、唯物論者のディドロは、無神論者であったにもかかわらず、魂の不死を主張している。
ここで言う魂の不死とは、神の国における永遠のいのちとか、輪廻転生といった実体のある魂ではなく、死後の名声という意味である。
後世における名誉を求めることを自己の幸福追求と考えることで、現世の振舞の規範とし、社会の形成や秩序へ貢献することの必要性を導いている。
これも功利主義(結果主義)の考えを発展させたものだなと思う。
現代の世代間倫理にも通じる考え方かもしれない。