成瀬川さん

成瀬川さん、『眠れないのは誰のせい』全話拝読しました!

短期集中連載、おつかれさまでした!

わたしがお送りしたお手紙への「変則的な返信」でもあるとのこと、どうもありがとうございます!!


成瀬川さんと女性たちとの関係については、それぞれ個別の事情がおありで、わたしが口を差し挟む問題ではないので、それについて感想を書くのは控えたいと思います。


第3話で取り上げておられたとおり、フーコーが同性愛者であったというのは、今ではよく知られた話ですよね。

フランスの歴史小説家ローラン・ビネが書いた『言語の七番目の機能』のなかで、フーコーのそういう伝記的エピソードが描かれています。

かなり露骨な性的描写があるので、これ書いてゆるされるんだ!? と逆に驚いたほどです。

フランス国内では、同性愛はもう隠しておくべき事実(タブー)ではないのでしょうね。

ヴェルレーヌとランボーが恋人関係にあったというのも、有名な話ですからね。

余談ですが、ローラン・ビネの『HHhH プラハ、1942年』は良い歴史小説なので、おすすめです。



第15話でフーコーの「生の政治」を取り上げておられましたね。

近代以前の権力は「目に見える権力」で、人々は権力から逃れようと努力してきました。

一方、近代の権力は「目に見えない権力」で、権力がわたしたちの間に内在化(内面化)していく、という考え方ですね。

この社会構造を、親が子供をしつけることに喩えて、「権力のディシプリン化(規律化)」とか「権力の身体化」と呼びますね。


それによって、「正常さ」への志向が生まれ、何が「正常」でないと見なされるのか、という「異常」への関心が生まれ、結果として同性愛者など「異常」と見なされた対象を非難し、排除する社会になっていく。

同性愛者は古代から存在していたのに、近代になって同性愛嫌悪が強化されたのはなぜなのか、ということをフーコーの理論によって説明できるわけですね。

自分たちを縛るものを自分たちで率先して作っている、という社会構造は皮肉なものです。


コロナ禍でフーコーの著作が再び注目されている、というのは知りませんでした。

成瀬川さんのおかげで、久しぶりにフーコーの「生の政治」についてじっくり考えることができて、良かったです。



「〈倫理レベルにまで及ぶ(内在化された)支配〉に〈抗う〉こと」が、今回のエッセイの意図であるという言葉に、なるほど得心がいきました。


成瀬川さんの高校時代から23歳までの実体験に基づくエピソードの途中に抽象的な政治哲学の話が挟まれているのは、エッセイのなかで浮いているというか、かみ合っていないように思う読者もいるのではないか、と思います。


人生において、嫌なことや、もやもやする出来事、道理を説かれても納得できないことというのはたくさんありますが、それを言葉にして説明するのは難しいものです。


そのもやもやを筋道立てて説明してくれる道具が、哲学や思想です。

人によって手に合う道具はさまざま、マルクス主義だったり、フェミニズム理論や精神分析学だったりしますね。


前回のお手紙でも少しふれたアドリエンヌ・リッチは、少女時代に受けた性的虐待を題材とする詩を書いています。その苦しい実体験が背景にあってこそ、「強制的異性愛」(異性愛こそ文化的強制)という発想が出てくるのだし、彼女の理論に説得力があるわけです。


成瀬川さんにとってはフーコーが、これまでの実体験を説明する理論であり、その苦しさ乗り越える武器のひとつであるのだな、と伝わってきました。


「僕は抗う!」という力強い宣言が、成瀬川さんの人生をあらわしていると思います。

勝ち目のない相手であっても、押しつぶされるような状況であっても、「抵抗」するという意志を持ち続けることが、成瀬川さんの執筆の原動力になっているのだと伝わってきました。


エッセイの最終話までお読みして、まだまだ語り足りないこと、いまは語るタイミングではないから語らないでいることがたくさんおありなのでは、と感じました。

薬の副作用について書いておられましたが、これからも書き続けるためにも、お体ご自愛くださいね。

引き続き応援しております!!


2024/07/14 21:58

カギ括弧の中で文が終わる場合、句点(。)を打つべきかどうか問題

文章ルールの話、これで最後です。

カギ括弧の中で文が終わる場合、句点(。)を打つべきかどうか?


大手投稿小説サイトでは、会話文の最後の句点を省略している小説と、会話文の最後の句点を打つ小説、どちらも見られます。

どちらかと言えば、カギ括弧内の最後の句点を省略している小説の方が多いでしょう。


これは文章作法としてどちらが正しいのでしょうか?


「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕案」(昭和21年、1946年)では次のように示されています。


 「」(カギ)の中でも文の終止にはうつ(例4)。

(例4)

「どちらへ。」

「上野まで。」


文化庁の「国語分科会第23回議事要旨」(平成16年)では、この問題について次のように議論されていました。


委員:かぎ括弧で,「はい。」のように句点を付けてから,かぎ括弧を付けるが,規則はあるのか。


文部科学省・文化庁:学校教育では句点を付けている。これは,先ほど出ていた「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」を指針としているためである。


委員:文学作品では,ほとんど句点を付けていないのではないか。


文部科学省・文化庁:現在の作家の中で,付けているのは黒井千次氏と吉本ばなな氏くらいである。



つまり、「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕案」の基準に従えば、カギ括弧内の最後の句点を打つルールが正しいと言えます。

しかし、現代の小説家の間では、カギ括弧内の最後の句点を省略するルールが新しい慣習として定着しているということです。


「公用文作成の考え方(建議)」(令和4年)でも、


括弧の中で文が終わる場合には、句点(。)を打つ。

(例)「決める。」と発言した。


と明確に書いてあります。


しかしながら、小説家がいつ頃から会話文の句点を省略するようになったのか、気になるところですね。

いくつか引用してみます。



「喜助。お前何を思っているのか。」(森鷗外『高瀬舟』)


「行けというなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待っておれよ。」(芥川龍之介『さまよえる猶太人』)


「此所に猫がいるんだ。」(萩原朔太郎『ウォーソン夫人の黒猫』)


「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」(宮澤賢治『風の又三郎』)


「ここに美玉あり。匱におさめて蔵かくさんか。善賈を求めて沽うらんか。」と子貢が言った時、孔子は即座そくざに、「これを沽らん哉。これを沽らん哉。我は賈を待つものなり。」と答えた。(中島敦『弟子』)


「女は死んだよ。君には死ぬ氣があつたのかね。」(太宰治『道化の華』)


「母さん、なんぜ妾なんかになつたんです。」(織田作之助『六白金星』)


「桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ」(坂口安吾『桜の森の満開の下』)


「そうはいかないさ。まさか時間を縦に暮らしたりするわけにはいかないだろう? 時間ってやつは、本来横に流れるものと相場がきまっているんだ。」(安部公房『砂の女』)


「つまり、冬が長いというわけだな」(星新一『冬きたりなば』)


「いいえ、ちがいます。あれはぼくの意志を超えて玉ねぎが働いてくれたんです」(遠藤周作『深い河』)


「かえるくんが一人で、東京を地震による壊滅から救ったんだ」(村上春樹『かえるくん、東京を救う』)


「呪われているんだ。未だにね」(宮部みゆき『楽園』)


「そうではなくて、何々用に翻訳するということなのではないでしょうかね。移動中に読むためのドストエフスキー。実業家のためのプーシキン」(円城塔『道化師の蝶』)



確認していて気づいたのですが、芥川龍之介や太宰治などの作品で、もともとはカギ括弧内の最後に句点が打ってある作品なのにもかかわらず、現在流通している文庫本ではカギ括弧内の最後の句点が省略された形に改訂されている場合が多いことに気づきました。

角川文庫や新潮文庫などでは、なぜかそうなっているのです。

出版社が旧字旧仮名から新字新仮名へ改訂したときに、ついでにカギ括弧内の最後の句点も削ったのでしょうか?


句読点をどこに打つかって、作家の個性が出るもので、わりと重要な要素だと思うのですが、いつの間にか句点を削られて出版されているというのは、驚きです。

作家が亡くなっていれば、そのような改訂も許されるのですかね……


2024/07/13 20:56

句読点の謎

しつこく文章ルールの話をつづけます。

「字下げ」、「字上げ」(上げ書き)ときて、句読点の話。


現代の日本語の書き言葉では「句読点」が当たり前のように使われていますが、「段落1字下げ」と同様、「句読点」も明治20年から明治30年頃に定着し始めた新しい文章ルールなのです。


現在では縦書きの場合、句点が「。」(まる)、読点が「、」(てん)ですね。


この「、」と「。」はもともと漢文を読むための符号の一種だったそうです。

明治39年(1906年)に文部省大臣官房調査課草案の「句読法案」が出され、国定教科書の基準として使われました。


戦後、文部省教科書局調査課国語調査室が句読法案をバージョンアップして、「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕案」(昭和21年、1946年)を発表しました。

縦書き・横書きあわせて19種類のくぎり符号が示されています。


【縦書き】

。(まる)句点

、(てん)読点

「 」(かぎ)

『 』(ふたえかぎ)

( )(かっこ)

―(ナカセン)

…(テンセン)


【横書き】

.(ピリオド)

,(コンマ)

:(コロン)

;(セミコロン)

《 》(かこみ)


このようなくぎり符号が示されていました。

文部省は昭和24年(1949年)に「公文用語の手びき」改訂版を発表しました。

翌年の昭和25年(1950年)に文部省が発表した「国語の書き表わし方」の付録である「横書きの場合の書き方」では、横書きの場合は「、」(てん)を用いず「,」(コンマ)を用いるという基準が明確に示されています。


ここまで見てきて、横書きの句読点には三パターンがあることがわかってきました。


パターン①「、」(てん)「。」(まる)

パターン②「,」(コンマ)「.」(ピリオド)

パターン③「,」(コンマ)「。」(まる)



70年以上前に示された基準はこうですが、一般の横書き日本語文書ではどのように定着しているのでしょうか?


横書きのウェブ記事では、NHKニュースや大手新聞社、海外メディアの日本語版でも、「、」(てん)「。」(まる)が句読点として用いられています。


わたし自身、横書きも縦書きと同じく、「、」(てん)「。」(まる)を使っている方が読みやすいです。こうして今、しゃべログに書いていても、「、」と「。」を自然と使ってしまいます。



一方、「,」(コンマ)「.」(ピリオド)は理系の文章で多く使われています。


わたしの夫は理系の研究者ですが、その夫が書く文章は基本的に「,」(コンマ)「.」(ピリオド)を使っています。

仕事の文書だけでなく、私信でも「,」(コンマ)「.」(ピリオド)を使っているので、最初は驚いたものです。

PCのキーボードの初期設定で、「,」(コンマ)「.」(ピリオド)となるよう設定しているので、日本語入力でも「,」(コンマ)「.」(ピリオド)と打ち込まれるのだそうですよ。


一度、どうして「、」「。」を使わないのか夫に尋ねたところ、なぜかは分からないが、「,」(コンマ)「.」(ピリオド)を使うことが、その業界に定着している慣習だから、ということでした。



「,」(コンマ)「.」(ピリオド)を使うのは理系だけかと言うとそうではなく、哲学書でも「,」(コンマ)「.」(ピリオド)は使われているんですよね。

『環境倫理学』の教科書では、400頁ぜんぶが「,」(コンマ)「.」(ピリオド)で統一されていました。英文から翻訳された本とは言え、文章中に数式を挟むわけでもないのだから、「、」「。」を使ってもよいと思うのですが……。

出版社の基準は、横書きでは「、」「。」でも「,」「。」でも「,」「.」でもかまわないけれど、それぞれの書籍内で表記を統一しているようですね。



公文書では句読点の表記が省庁によってばらばらなのだそうです。

官報では横書きでも「、」(てん)「。」(まる)が使われています。

文部科学省では、「,」(コンマ)「。」(まる)表記だったのが、近年、「、」(てん)「。」(まる)表記に変わったのです。


令和元年の「文部科学白書」では、「,」(コンマ)「。」(まる)が使われていました。70年ほど前に自分たちが示した基準に従っていたわけですね。


しかし令和4年の「文部科学白書」では、「、」(てん)「。」(まる)が使われています。


この間に何があったかと言うと、文化審議会が「公用文作成の要領」(昭和26年)をバージョンアップし、「公用文作成の考え方(建議)」(令和4年)を発表したのです。

この中で「句読点や括弧の使い方」として、新しい基準を示しています。


句点には「。」(マル)読点には「、」(テン)を用いることを原則とする。横書きでは、読点に「,」(コンマ)を用いてもよい。ただし、一つの文書内でどちらかに統一する。


このように新基準が示されると、「,」(コンマ)「。」(まる)の組み合わせは公文書で使われなくなり、一般社会の文章においてもだんだん消えていくのではないでしょうか。


2024/07/13 14:29

現代では消滅した「字上げ」ルールの話

「字下げ」の話から派生して……

かつては「字上げ」という文章作法がありました。


字上げ(上げ書き)というルールは、「擡頭(台頭)」と呼ばれていて、敬意表現として使われていました。


明治以降、「字下げ」や句読点などの新しい文章作法が一般に定着していったのに対して、明治初期まで公文書で使われてきた「擡頭」「闕字」「平出」などの文章作法は消滅していったのです。


「闕字(欠字)」は高貴な人の名前や役職などの前に1字空けることです。より敬意をはらって「2字空け」するルールもありました。


「平出」は「平頭抄出」の略とされ、高貴な人の名前や役職の前で改行し、他の行の書き出しと同じ位置から書き出すものです。


「擡頭」は「平出」よりもさらに敬意表現を強くしたもので、高貴な人の名前や役職の前で改行し、他の行よりも1字か2字高く書き出すものです。


敬意の度合いとしては、闕字→平出→擡頭の順で敬意度が高くなります。

このような敬意スタイルは、漢字文化圏において使われたルールでした。


「闕字」は大宝律令(701年)で朝廷の公文書として定められたものが一般に定着し、武家文書や村方文書、私信まで広く使われるようになった文章作法だったそうです。



「擡頭」の例をいくつか挙げてみましょう。


「永楽帝勅書」(相国寺所蔵)より

(永楽5年、応永14年、1407年)

室町幕府の三代将軍義満が派遣した遣明使に、明の皇帝が与えた勅書。

「勅」が1字上げ、「天」が2字上げとなっています。



「明神宗贈豊太閤書」(宮内庁書陵部所蔵)より

(万暦23年、文禄4年、1595年)

明の皇帝神宗が豊臣秀吉に宛てた勅諭。

「皇帝」「天命」「成祖」が2字上げとなっていますね。



日本の中世文書では「闕字」か「平出」までが一般的で、「擡頭」ほどの強い敬意表現はそうそう見られなかったそうですが、幕末になると「天朝」や「王政」を「擡頭」にした文書が見られるのだそうです。

西郷隆盛が書いた書状や、藩領よりは「天朝御領」を望む嘆願書(村方文書)など。



しかし、明治になると、公文書で「擡頭平出闕字ノ例ヲ廃ス」と定められました。

「太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第四十一巻・官規十五・文書三」(国立公文書館所蔵)より。



漢字が伝来してから1000年以上使われてきた文章ルールが消滅してしまうって、逆に驚きなんですが……。

一部の例外があるとは言え、階級制度がなくなることの影響って、想像以上に大きいことだったんだなぁ。



現在の書物では「擡頭平出闕字」を見ることはないですが、皇室に関する文書や、神職が神々に奏上する文書においては、いにしえの敬意スタイルが残っている可能性もありますね。


2024/07/13 14:21

「字下げ」ルールの話

大手小説投稿サイトの小説を読んでいて、「いちいち字下げしてあって、すごく読みづらい。横書きは字下げしない方が良い」という趣旨の感想を見かけました。(原文ママではないです)


該当の小説は、「段落1字下げ」ルールを忠実に守っていて、きちんと体裁が整っていると言える作品でした。

ちなみにその小説は商業媒体で電子書籍化されており、その同じ作者さんの別の小説はコミカライズもされています。



「字下げ」は一般的な文章作法ですよね。

「字下げ」ルールを守らない場合、「小説作法に則っていないから読みづらい」と感じる読者の方が多いのではないかと思います。じっさい、小説投稿サイトではそういう指摘をする感想もよく見かけます。

その一方で、「字下げ」ルールを守っているにもかかわらず、逆に「読みづらい」と指摘する読者もいるんだなとびっくりしました。


「段落1字下げ」という文章作法は、明治時代から使われるようになり、徐々に定着していったルールなのだそうです。

日本語の長い歴史からすると、わりかし最近の出来事ですね。

字下げと同様、大昔の書物では句読点も使われていなかったのだとか。



横書きでは「字下げ」しないで書くべきなのか?

これはウェブ媒体か書籍かで、意見が分かれる問題だと思います。


小説投稿サイトはビューワー設定で「横書き」か「縦書き」かを読者が自分で選べる仕様がほとんどなので、ここでは横書きに固定されているウェブ記事を対象とします。


ウェブ記事では「字下げ」しないで掲載されている場合も多いです。

NHKニュースウェブやBBCニュース日本版、ニューズウィーク日本版では、「段落1字下げ」をしないで、段落と段落との間に1行空白を入れています。

この「段落1行空け」はウェブ媒体で浸透しつつある新しい文章作法ですね。


一方、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞のウェブニュース記事では「段落1字下げ」しており、なおかつ「段落1行空け」もしています。



また、書籍では横書きでも「字下げ」されていて、「段落1行空け」はありません。

欧米言語から日本語に翻訳された哲学書は、横書きで出版されていることが多いのですが、これらも手持ちの本を確認してみたら「字下げ」ルールをちゃんと守っていました。


結論としては……

書籍として出版されると、横書きでも「字下げ」ルールが必須となる。

ウェブ媒体では、「字下げ」するしないの統一見解はまだない。

と言えますね。


今のところ大手新聞社は「字下げ」する派ですが、近い将来、ウェブ記事で完全に「字下げ」が消滅するのか、いまはその過渡期なのかは、あと20年後くらいに分かるのかもしれませんね。


2024/07/13 12:08

南ノさん
わあ、「黒井戸殺し」、観てくださったんですね!!

どうもありがとうございます!

お楽しみいただけたようで、良かったです~^^


わたしも野村萬斎さんの演技が昔から好きで、萬斎さんが主演なさった映画『陰陽師』(夢枕獏原作)シリーズも大好きな作品です。

おかげで夢枕獏さんの原作小説や、元ネタである今昔物語集、岡野玲子さんによるコミカライズも読みましたよ。


そうそう、三谷幸喜さんの脚本はさすがですよね!

超有名な原作をあえて翻案するという気概が素晴らしいです。原作を知り尽くしたファンが観るわけで、ぜったいにイギリスのドラマ版と比較されるだろうし……


三谷さんが手掛けた作品では、映画『ラヂオの時間』や大河ドラマ『真田丸』が大好きです^^

大河ドラマは長いので全話観るのがむずかしいのですが、『真田丸』は途中挫折したり、飽きたりせず、全編通して観ることができた作品です!!


放映当時は長野県に旅行して、真田氏ゆかりの上田城に足を運んだり、江戸東京博物館の「真田丸展」に見に行ったりしましたよ。

天正壬午の乱などぜんぜん知らなかったので、ドラマの時代考証を手掛けた黒田基樹さん、平山優さん、丸島和洋さんの著作を読み漁ってですね。

三谷さんのおかげで、一時期すっかり歴女(にわか)になったのでした^^


そして『風と花の賦ーー平安神奇譚』、短期集中連載おつかれさまでした!

また南ノさんのnoteのページにお邪魔しにいきますね!!


2024/07/11 11:57

南ノさん
「霊媒探偵城塚翡翠」のドラマ版、予告編を見てみましたが、たしかに原作のイメージにぴったりの配役ですね!

なるほど、ドラマの構成もよく練られているんですね~^^

わが家が加入しているNetflixでは配信がないのが残念です。


そして「黒井戸殺し」、タイトルから笑っちゃいますよね。

三谷幸喜さんが脚本、ポワロにあたる名探偵・勝呂武尊役は野村萬斎さんが演じています。

この名探偵・勝呂武尊シリーズは「オリエント急行の殺人事件」、「黒井戸殺し」、「死との約束」があります。


一作目の「オリエント急行」(劇中では下関発東京行の特急東洋)は、昭和8年を舞台にしているんですよ。

時代設定が原作通りなので、舞台を日本に移したことによる違和感がなく、原作の時代感が見事に表現されていました。

デビット・スーシェがポワロ役を演じるイギリスのドラマ版でも同作を観たことがありますが、それと比べても、三谷さんが翻案した「オリエント急行」はすばらしい出来だったと思います。

原作をふくらませた、三谷さんオリジナルの「犯人たちの事件簿」も面白かったです。


名探偵ポワロファンの間では、野村萬斎さんのポワロ役は賛否あったようですけど、わたしは萬斎さんの大げさな演技(ほめ言葉)が狂言師らしくて好きなので、大満足でした。


名探偵・勝呂武尊シリーズ、もし機会がありましたら、観てみてくださいね!


2024/07/01 21:45

『medium 霊媒探偵城塚翡翠』
『medium 霊媒探偵城塚翡翠』の漫画版を読みました。

アフタヌーン誌で連載されていて、全3巻で完結。

同名の原作小説は多くの賞を受賞し、実写ドラマ化もされているそうです。


最近、『降り積もれ孤独な死よ』という意味深なタイトルの新作ドラマの予告編をよく見るので興味をひかれ、原作の漫画を読んでみました。

そうしたら、ミステリ漫画が次々レコメンドされるようになり、そのなかに『medium 霊媒探偵城塚翡翠』のタイトルがあってですね。

あ、これ南ノさんが原作小説を読まれたと言っていた作品だ! と思い出し、試し読みして絵柄がきれいだったので、漫画版を読むことにしました。


『medium 霊媒探偵城塚翡翠』を最後まで読んだ感想は……

「うわ、だまされたー! くやしいー!!」(絶叫)

「〇〇と言っておきながら、〇〇ではないってどゆこと!? 詐欺師じゃない?」(オコ)

という感じでした。


そう言えば、ミステリってしばらく読んでいなかったので、こういうものだと忘れていました。

作者の手のひらの上で踊らされると言いますか、まんまとだまされるのを楽しむジャンルでしたね。


読み終えて、これ映像化するの難しかっただろうな、と思いました。

だって小説であれば、作者が読者に隠しておきたいことを語らないでおけますけど、映像は必然的に三人称になってしまうから、隠しておくのが難しいですよね。

犯行の場面を描いたら、役者さんの声でバレそうです。

その点、漫画はデフォルメ文化なので、読者に見せたくない情報を作者の都合で隠しておけます。

名探偵コナンでも、犯行の場面は性別不明の黒シルエットの人ですませていますね。



「霊媒探偵」と同じ手法で真っ先に思い出したのは、アガサ・クリスティーの名探偵ポワロシリーズの『アクロイド殺し』です。

三谷幸喜さんが日本を舞台にポワロを翻案した名探偵・勝呂武尊シリーズの『黒井戸殺し』では、原作の叙述トリックを見事に映像化していて、観ていて完ぺきにだまされてしまい、感動を覚えるほどでした。



「霊媒探偵」とタイトルがよく似ている『心霊探偵 八雲』シリーズがありますよね。

「心霊探偵」のほうは、主人公が死者の魂を見ることができる異能力を持つ、特殊設定ミステリなんですよ。

以前に「心霊探偵」のアニメ版を見たことがあったので、今回の「霊媒探偵」も同一ジャンルなのかと思って読み始めましたが、いや、まったく違っていましたね。

不思議なことは何もない、という意味では、中禅寺秋彦(京極堂)シリーズと同ジャンルと言えるかもしれないと思ったのでした。



2024/06/29 22:38

ドリームキャッチャー2
6/20に見た夢


悪夢ではないのですが、妙に具体的で記憶に残ったので、書き留めておきます。


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一人称視点(視点人物はわたし)

どこか大きな座敷にいる。温泉施設の無料休憩用の大広間のような場所。

となりに中年の男性がいて、わたしはそのおじさんに本を手渡す。

表紙には『鉱山(ヤマ)の社会史』と書かれている。

おじさんが本を開くと、見返しにびっしりとメモが書きこまれていて、おどろいた。

「図書館で借りた本だから書き込みが……」とか、わたしが言っている。

本を読み始めたおじさんは、うなずいたり、「そんな事件あったか……?」とぶつぶつ言いながら、真剣な表情で本に没頭していた。


そのとき、隣の部屋から大音量の歌謡曲が聞こえてきた。

隣の大広間では、「徳光和夫トークショー」が始まった様子だ。

わたしは音漏れがうるさいと思いつつ、「徳光さんって歌もお上手だったんだなぁ」とかおじさんとのんきに話している。

しばらくすると静かになり、歌謡ショーからトークタイムになったようだ。


こちらの部屋ではラジオからJ-WAVEの番組が流れている。

わたしはそなえつけの大きな木製の棚のなかにある木材(棚板の一部?)をあれこれ組み替えたりしている。

わたしの足元にスプレー缶やマジックペンがばらばら散らばっていて、「これらも持ち帰んなきゃ」と、リュックサックに詰め始めたところで暗転。



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【考察】

目覚めてから思ったのは、徳光和夫トークショーってなに? ということであった。

思い返してみると、テレビで「徳光和夫さんのトークショーやります、観覧ご希望のかたは……」というCMを見た覚えがある。

テレビCMって基本的に聞き流していて、真剣に見ているつもりはないが、こうやって記憶に残っているものなのだなぁ。


夢に出てきた本は『芦別 炭鉱〈ヤマ〉とマチの社会史』という本が元ネタだと思う。

最近、読友さんの口コミを読んで、読みたいと思っていた本だ。

じゃあ、夢の中に出てきたおじさんは誰なんだ?

話しぶりから鉱山出身者っぽい感じであった。


そう言えばだいぶ前に、松尾鉱山資料館に足を運んだとき、閉山前の松尾を知るという男性がちょうど来館していた。

かつて日本中にあった鉱山は、1970年代までに多くが閉山し、そこで働いていた大人たちやその子供たちは、全国に散らばっていったらしい。

松尾鉱山資料館の一室では、かつての「鉱山の子供たち」が年輩になってから再び松尾を訪れた様子が記録されている。来館者が記帳するノートには、「すべてがなつかしい。ヤマこそがふるさと」といった熱いメッセージがたくさん綴られていた。

歴史を学習する資料館というよりも、思い出のメモリーを保管しておく場所という感じで、同窓会的な独特の雰囲気があった。


松尾鉱山跡地は廃墟アパート群が有名で、映画やドラマで廃墟の映像が使われたり、廃墟マニアが勝手に足を踏み入れてはネット配信している。

しかし、鉱山出身者にとっては、そこは単なる廃墟ではなく、思い出の家なのだ。その資料館に来館していた男性も、思い出のエリアに行ってみたが、そこはすでに建物が取り壊され、更地になっていたと言っていた。

全国に散らばった鉱山出身者が、どんなライフヒストリーをたどったのか、書いてある本があれば読んでみたいと思ったのだった。


すっかり忘れていたけど、そういう記憶の断片が、『芦別 炭鉱〈ヤマ〉とマチの社会史』という本の口コミを見たことがきっかけになって思い出され、夢に出てきたのかな。


南ノさん

南ノさん、「功利主義と自由主義」をお読みいただき、どうもありがとうございます!

そうなんです、近代以降の哲学は社会改革運動の説明理論になってきた歴史があり、とても面白いです。


ベンサムとミルは高校の倫理の授業でも習う超有名思想家ですが、その思想が現実の社会にどういう影響を与えたのか、という政治的な側面についてはあまり授業でふれないんですよね。

思想と運動は両輪なので、両方を知ることによって歴史のダイナミックな動きが見えてきて、より面白くなると思うのです。

ただただ試験対策のために「最大多数の最大幸福」とか「満足した豚と不満足なソクラテス」といった用語を暗記するだけではつまらないですよね。



おお、宮澤賢治の読み直しをされたんですね!!

おっしゃる通り、わたしは子供の頃から宮澤賢治が大好きでして、しゃべログの『有機交流電燈』もそうですし、読書ブログの『真空溶媒』というタイトルも、『春と修羅』からとっています。


「永訣の朝」のねがいには、胸打たれますね……

高校生の頃の話ですが、「永訣の朝」を題材にした映像作品(紙芝居アニメ)をチームで制作して、高総文祭の全国大会に出品したんですよ。

なので「永訣の朝」はわたしにとって、青春の思い出深い作品でもあります^^


たしかに「みんな」や「われわれ」というフレーズは、賢治がよく使う言葉のような気がします。

『春と修羅』の序文にも、


「すべてわたくしと明滅し

 みんなが同時に感ずるもの」


「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

 みんなのおのおののなかのすべてですから」


という文言があるので、共感性をとても大事にしていたのかなと思います。

詩人の感性で美しいと思ったものを「みんな」(読者)にも共有したいというようなことなのかなと。

賢治は自分自身のことを「有機交流電燈」と言っているので、「直流」ではなく「交流」というところに、彼なりの意味があるのでしょうね。


思いがけず、大好きな宮澤賢治のお話ができてうれしかったです!

どうもありがとうございます!!


2024/06/17 00:10

功利主義と自由主義
こちらに書き込むのが遅くなりましたが、『有機交流電燈 ダイアローグ』に功利主義と自由主義をテーマに2話追加しました。

功利主義(哲学的急進主義の道)

自由主義(他者危害防止の原理)


話数が増えてきたので、『有機交流電燈 ダイアローグ』に章題を追加して、テーマごとに記事を並べ替えてみたところ、【「哲学」がわかる!】と題した章に、ラ・メトリの1話しかないのはさびしいなと思いまして、ベンサムとミルの話を取り急ぎ追加した次第です。


ベンサムとミルは祖父と孫くらいの年齢差があるんですね。

ベンサムが議会改革運動の提唱者になったのは、彼が60歳のときにジェイムズ・ミル(ジョン・スチュアート・ミルの父)と出会い、友人となったことが理由だと言われています。

このジェイムズ・ミルはジャーナリストでした。

ジェイムズはベンサムの学説の支持者となり、親友づきあいするようになった彼の説得によって、ベンサムは議会改革の必要性を理解し、政治的急進主義に転回したのだそうです。

ベンサムは84歳で亡くなりますが、そのときジョン・スチュアート・ミルは20代半ばの若さでした。

若きミルはベンサム派の貴公子と言われていたそうです。



そんなミルの『自由論』や『功利主義論』は大変読みやすい哲学書です。

本当に哲学書なのかな? と疑問に思うほど、ときに口が悪いんですね。

功利主義批判に対して、歯に衣着せぬ反論パンチを繰り出してます。

ミルの『功利主義論』から少し引用しますと、



「功利という用語を快楽と対立する狭い、単なる俗語的な意味で使っていると思い込んでいる無知な誤解については、ひとこと触れておけば十分である。(中略)こんな馬鹿馬鹿しい誤解を抱きかねない連中と混同されかけただけでも、釈明して然るべきだろう。(中略)何もかも快楽に、それもいちばん下品な快楽に関連させるという非難が、もう一つのありふれた功利主義攻撃であることを考えると、この誤解はいよいよ奇怪きわまるものである。」


「新聞や雑誌だけでなく、重厚でもったいぶった書物の中でも、たえずこの種の浅薄な誤解に陥っている。功利主義的という語を見たとたんに、それについては発音以外に何も知らないくせに、美とか装飾とか娯楽といった種類の快楽を拒絶し無視することが功利主義的だとこの連中は言いふらすのである。」



引用おわり。

いやあ、ヒップホップのラップバトルみたいですね!  熱いです!!

ミルは後の世に多大な影響を与えているんですよね。

「ディストピア」という言葉を生み出したのもそうですし、のちの社会主義や、現代のリバタリアニズムのルーツでもあります。

それも、彼の本の読みやすさからきているのかなあと思ったりします。

使っている用語がシンプルで、伝えたい内容がわかりやすいんですよね。


現代の哲学者ハートが、ミルの自由原理を「曖昧で開かれた構造」と評していました。(ハート「功利主義と自然権」より)

シンプルな理論というのは、「曖昧」だと批判することもできますが、その分、いろいろな場面で応用できるわけです。

「曖昧」かつ「開かれた構造」だから、100年以上経っても通用する基本中の基本原理として、残っているのかなと思います。


2024/06/15 13:31

成瀬川さん

『成瀬川るるせ短編手帖』第92話、刺激的なテーマを取り上げておられて、とても面白く拝読しました!


成瀬川さんはフーコーをお読みになっているから、フェミニズム理論にも興味を持たれた感じでしょうか?

クィア理論と言うと、ジュディス・バトラーなどが有名ですよね。

アドリエンヌ・リッチの「強制的異性愛」と「レズビアン連続体」という用語も興味深いなぁと思っています。(言い得て妙と言うか、パワーワードですよね)


リッチのような、シスターフッド的な理想を掲げるレズビアン・フェミニストの論者がいる一方で、成瀬川さんが本文中で書いておられるような、「反フェミニスト」に見える当事者たちがいるのは事実ですよね。

SM・ポルノVSコミュニティ論争と言われて、フェミニズムでは昔から議論されてきたテーマですね。

当事者の数だけ考え方の違いがあるので、LGBTQとひとくくりに語るのは無理があるなと思っています。


「オタク的記号だけで拒絶反応を起こすひと」というのは実際おられますが、多くの場合、単に絵柄の好みの問題だったりしますよね。

カバネル の「ヴィーナスの誕生」やマネの「オランピア」は芸術に分類されますが、あれらがOKで、現代日本のポルノイラストがなぜダメなのかを理論的に説明するのは、困難を極めると思います。


ポルノアニメを規制すべきかどうかというテーマは、わたしも以前考えたことがありますよ。

生身の人間が演じるポルノと違い、現実に加害者も被害者もいないポルノアニメの場合は、フェミニズム(被写体の人権)の問題ではなく、自由の問題(観る自由、愚行権)なのかなとわたしは思っています。

アメリカでは、コムストック法というポルノ雑誌規制法があった時代がありました。当時は産婦人科の医学書も「猥雑物」とみなされ、規制されて違反すると処罰される対象でした。

コムストック法の背景には、「性的不品行や不道徳を排して、健康で道徳的な国民を育てるべき」といった、国家的パターナリズムがあると言えますね。

同様に、売春や同性愛を法律で規制すべきかどうかを議論した、イギリスの哲学者ハートと裁判官デヴリンの論争も有名ですね。

都の有害図書条例も意図するところは同じなので、モラル(私的な道徳/不道徳)の問題にどこまで国家が干渉するのかは、パターナリズムと自由のせめぎあいだなと思います。


2024/06/05 00:26

塩の姫君

先日、『有機交流電燈 ダイアローグ』に「塩の姫君」と題して2話追加しました。

塩の姫君①(グリム童話)

塩の姫君②(ユダヤ民話)


グリム童話の「泉のそばのがちょう番の女」とユダヤ民話(イラクに伝わるユダヤ民話)の「父への愛は塩の味」をご紹介しています。

どちらも、父親である王さまへの愛を塩にたとえて追放された姫君が登場するおとぎ話です。


その物語の核心となるモチーフが共通している物語を「類話」といいます。

「父への愛は塩の味」は「泉のそばのがちょう番の女」の類話ということになります。

なんとスロヴァキア民話にも類話が存在するという情報を得ました!


「金より塩がいい」というタイトルの昔話だそうです。

タイトルからストーリーが想像できるような……

パボル・ドブシンスキー『スロバキア民話』(ロナルド・シュミット=ファイリック訳)に収録されているのだとか。

この絵本、ぜひとも入手して読み比べしてみたいですね!



有名なおとぎ話の類話を比較考察するというテーマで、取り上げたい作品がほかにもあってですね。

マルシャークの『森は生きている』(原題は「十二か月」)です。

日本でも子供向けのミュージカルとしてよく上演されていますよね。わたしも舞台を見たことがあります。

ソ連時代の児童文学を代表する作品ですが、作者マルシャークの出自はロシア生まれのユダヤ人でした。

この『森は生きている』の元ネタが、なんとなんと、スロヴァキア民話なのだそうです。

上の『スロバキア民話』に「十二の月の話」という昔話が収録されているそうなので、これが元ネタではないかとあたりをつけております。


ちなみに、わたしの愛読書『いちばんたいせつなもの バルカンの昔話』(八百坂洋子訳、福音館書店)にも類話が収録されているんです。

マケドニア民話の「娘と十二の月」という昔話です。


この本に収録されているマケドニア民話には、「灰かぶりのマーラ」という、タイトルからわかる通りシンデレラの類話もあります。

このお話も、シンデレラとは結末がまったく違っていて、すごく面白いですよ。


2024/05/25 11:47

南ノさんへ②

南ノさんが「一番好き」とおっしゃられた「雨のなかの猫」、読み直してみます!


以前に"In Our Time"を読んだのは、授業の一環でして、ただ先生が語る解釈を鵜呑みにしていただけだったような気がするので、「自分で読んだ」とは言えないんじゃないかと思えてきました。英文を目で追っていただけだったのかも……


ちなみに先生は「ダンテの神曲のパロディで、聖なる愛から性愛への格下げ」うんぬんと語っていましたね(遠い目)

南ノさんとこうしてヘミングウェイについてお話して、ひさしぶりに思い返し、本当にそのような解釈が正しかったのか、あやしく思えてきました。


あれからだいぶ年数が経ち、わたし自身も読書経験値を積んできているので、いま読めば、フラットな目で作品と向き合えるのではないかと思っています。


「白い象のような山並み」も未読なので、ぜひ読んでみたいです!


丁寧に教えていただき、どうもありがとうございます^^


2024/05/01 22:35

南ノさん

南ノさん、お読みいただき、どうもありがとうございます!!


わあ、「ボスコ・マグ」、気に入っていただけてうれしいです^^

わたしもこのクマのキャラクターがお気に入りで、ほかにもグッズを集めているんですよ。

そうそう、醸造所の話はつい最近の夫の実体験です。1日で150本ほどびん詰めしたそうですよ。

そのうちの数本が、わが家の冷蔵庫に大事にとってあります。



フォークナーは難しいので、『八月の光』を挫折されたというのがよくわかります。

わたしが最初にフォークナーを読んだのが、読書会の課題本としてだったので、そういう目標がなかったら、わたしも最後まで読みきれなかったと思います。


アメリカ文学の研究者だった義父(夫の父)も生前に、「フォークナーは難しい。だからフォークナーを研究していると言うと、仲間うちで一目おかれる」と言っておりました。


義父との初めての顔合わせのときに、フォークナーの話題で盛り上がり、打ち解けてお話することができたので、フォークナーを読んでいて良かったなとそのときしみじみ思いました。



そう、村上春樹の「納屋を焼く」が、フォークナーの"Barn Burning"にタイトルが似ているんですよね。(でも作者本人は下敷きにしていないと言っているのだとか)

考えてみると、村上春樹の小説を今まで読んだなかで、フォークナーの影響を感じる部分って、あまりなかった気がします。あまりフォークナーみを感じないと言いますか……。


フォークナーの文体って、とにかく、くどいんですよね。(ほめ言葉)

ひと息が途方もなく長くて、なかなかピリオドを打たない。

被修飾語ひとつに対して、カンマやセミコロンで修飾文をどんどんつなげていき、長大な文章を構築しています。

具体的な事物に対して、神話的で抽象度が高い意味づけ(比喩)を何層にも重ねて語っていく感じです。

それと比べて、村上春樹の文章ってすごく読みやすいですよね。比喩もそれほど抽象的ではないですし。


フォークナーが「乾いた印象」というのは、たしかになるほどと思いました。

読者にとっては、目を背けたくなる苦々しい事実を、ありのままに、淡々と描いているところが、突き放したような、ドライな印象を与えるのでしょうか。救いのない、苦い後味の物語も多いんですよね。


ヘミングウェイの方がむしろ「女性的」な印象というのは、目からうろこでした。

ヘミングウェイは"In Our Time"しか読んだことがなかったです。この作品は、性的な匂わせ表現が男性的な印象(男同士だけで通じ合うような、わざと下世話な言い方をしているような感じ)を受けましたが……

南ノさんのお言葉を聞いて、敬遠せず、ヘミングウェイのほかの作品も手にとってみようと思いました。

ご紹介、どうもありがとうございます!


2024/04/29 22:24

『ブックガイド』に1冊追加

『【ブックガイド】人生は、断片的なものでできている』に、ウィリアム・フォークナー『エミリーへの薔薇』を追加しました。

「ノーベル文学賞を読んでみよう」と題した章の2話目、ヘッセとカミュの間に挿話しています。

(受賞年順に並べています)

お時間のございます時にお読みいただけましたら、さいわいです。


『フォークナー全集8 これら十三篇』(冨山房)から引用していますが、『エミリーに薔薇を』(中公文庫)のほうが手に入りやすいと思います。電子書籍版もあります。


『エミリーへの薔薇』はミステリ仕立ての物語なので、ネタバレせずに3000字以内(注釈除く)でご紹介しています。

いちばん面白いところは結末なのですが、そこを言わずに、作品の面白さを伝えるってむずかしいですね。なんとかお伝えできていれば良いのですが……。


『これら十三篇』に収録されている短篇「あの夕陽」も名作として名高いです。

(アメリカ国内での文学的評価は、「あの夕陽」の方が圧倒的に高いです)

「エミリーへの薔薇」と「あの夕陽」、両方紹介したかったのですが、そうすると字数がすごいことになってしまうので、悩んだすえ、今回は「エミリーへの薔薇」にしました。

「あの夕陽」はキリスト教信仰が背景にある物語なので、多くの日本の読者は、アメリカの読者が感じたほどの感動を味わえないのでは? と思ったり……

聖書抜きでの説明はむずかしいですが、名作であることはまちがいないので、「あの夕陽」についてもあらためてどこかで書きたいなと思っています。



フォークナーとマーガレット・ミッチェルが同じ時期に生きた作家というのは、意外と知らないかたも多いのではないでしょうか。

しかし、アメリカ文学史の教科書"An Outline of American Literature"(アメリカ文学外観)では、フォークナーの章はあるのに、マーガレット・ミッチェルの章はないのです。

(ちなみに同世代の作家でフィッツジェラルド、ヘミングウェイ、スタインベックの章はある。後の世代の作家だと、サリンジャー、ソール・ベロー、アイザック・バシェヴィス・シンガー、ピンチョン、トニ・モリスンなど)


やはりアメリカ文学史においても、純文学的な作品と娯楽作品(エンタメ)は峻別されているということなのでしょうか……?


2024/04/22 21:35

南ノさん
南ノさん、お忙しいなかでわざわざお読みくださり、コメントまで寄せていただき、本当にどうもありがとうございます!

今回はあらすじ含め5話構成と長くなってしまい、自分でもまとめていて長いなと思いつつも、難しい題材なので説明や引用をあまり削ることができず……

こうして読んでいただけて、感謝の気持ちでいっぱいです!!


そうなんです、『テロル』は読書会メンバーの感想が見事に分かれた作品でした。

「面白くない」とか「失敗作だと思う」とか、辛口コメントもけっこう出されましたね。

そうは言っても、皆さん、しっかり最後まで読み通してきているので、すごいなといつも思っています。


多くの人は面白くなければ、途中で読むのをやめると思うんですよね。

読書会の皆さんの場合、課題本だからということもあると思いますが、「面白くない」と思っても途中でやめずに、最後まで読んだ上で、どこが問題点だったのか考えるところがさすがだなと思っています。


かく言うわたしも、本書の結末は納得がいかないと思いました。

プロローグとエピローグがつながっている構成から考えるに、作者は最初からこの結末にしようと思って書き始めたのでしょうが……。

おかげで読書会の最後のほうでは、もし主人公が死ななかったらのIFトークで盛り上がってしまいました。



メロドラマやミステリといったエンタメ要素は、物語を進める原動力、読者にページをめくらせる力になるので、小説にとってなくてはならないものだと思います。

そのエンタメ要素と、作品を通して作者が伝えたいテーマ(本書で言えば、パレスチナの抵抗運動の立場に立った台詞)のバランスをとるのは難しいものですよね。


ノーベル文学賞作家のオルハン・パムクの『雪』も、あえてジャンル分けすれば恋愛小説の棚に入れてもよい物語だと思いますが、作中で語られている歴史観(トルコの近現代史)や宗教観(スカーフ論争)、人種差別の問題などが奥深いんですよね。

ストーリー(ミステリとメロドラマ)を追いたいだけだったら、こういう説明的台詞はぜんぶ無駄話に思えてしまうので、読み飛ばす読者も多いのではないでしょうか。

作者が本来書きたいのは、その説明的台詞の方なんでしょうけども……。


パレスチナ出身のガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って』も、無理やり小説にしている感があってですね。

作者が伝えたいことが前面に出すぎていて、途中の台詞が、論文を読んでいるような感じを受けました。そこは全部台詞で言うのではなく、登場人物の行動(ストーリー)で表現してほしいなと思ったのでした。

とは言え、そう不満に思っているのはわたしだけかもしれないです。『ハイファに戻って』は現代パレスチナ文学で最も有名な作品と言われていますし、映画にもテレビドラマにもなっていますので。


今回の『テロル』の話に戻しますと、結末に不満が残りましたが、たくさんのことを学ばせてくれた作品で、読んでよかったです^^


2024/04/08 21:10

『ブックガイド』に1冊追加
『【ブックガイド】人生は、断片的なものでできている』に、アティーク・ラヒーミー『悲しみを聴く石』を追加しました。

「本で世界とつながろう」と題した章の最後に追加しています。


アティーク・ラヒーミーはアフガニスタン出身の作家で、『悲しみを聴く石』はゴンクール賞受賞作です。

ミステリ仕立てということもあり、ネタバレなしで3000字以内でご紹介していますので、どんな結末を迎えるのか、ぜひ実際にお手に取ってみてほしい1冊です。



わたしが本書を最初に読んだのは、2012年9月の読書会でした。

今回、久しぶりに読み返してみて、男性作家と言われなければ分からないほど、女性心理を見事に描いていると思いました。


ソ連によるアフガニスタン侵攻は、1978年に勃発して1992年までつづきました。

作者がフランスに亡命したのは1984年、この戦争に真っ只中に当たります。(兵役義務を拒否するためだったそうです)

9日間かけて徒歩で国境を越えてパキスタンに入り、そこからフランスに亡命したのだとか。


作中に描かれている戦争は、作者が体験した戦争(ソ連対ムジャーヒディーンの戦争)をイメージしているでしょう。

そして、「女」の家に押し入る兵士たちというのは、服装や台詞から「ムジャーヒディーン」(のちの「ターリバーン」になっていく男たち)だと思われます。


しかし、本書が発表された2008年当時は、アメリカによるアフガニスタン侵攻の真っ最中でした。

アメリカによるアフガニスタン侵攻は、2001年から2021年までつづきましたね。


誰と誰が戦っているかは微妙に違いますが、戦いの構図自体はほぼ同じ(外部勢力が圧倒的戦力で攻めてきて内部勢力がゲリラ戦を戦う)なので、本書を読んでいると、違和感なく「現在の戦争」(アメリカ&連合国対ターリバーン政権の戦争)だと思えるのです。

これは作者が、具体名を一切出さずにその場の雰囲気だけで、読者に想像させていく表現力のなせる業だと思います。


とは言え、80年代をイメージして書いた(であろう)作品が2000年代に読んでも「現在」のこととして通じるというのは、良いのか悪いのか……


そう言えば、『シャーロック・ホームズ』のワトソン医師は、第二次アフガニスタン戦争で負傷して帰還した従軍医師という設定でした。

BBCが現代を舞台に翻案したドラマ「シャーロック」を見たとき、ワトソンは原作と全く同じく、アフガニスタン帰還兵という設定でしたね。

19世紀末に書かれた人物設定が、そのまま21世紀に通用するというのもおどろきです。

どれだけ戦争がつづいている地域なのだとあらためて思いました。


2024/04/06 11:47

南ノさん

南ノさんがご無事でなによりです。

報道を見て、建物の倒壊や土砂崩れなどおどろきました。

被害にあわれたかたがたに心よりお見舞い申し上げます。

余震があるので、不安ですよね。

救助活動、災害復旧がどうか早く進みますように。


お忙しいと思うので、お返事はお気遣いなくお願いします。


2024/04/03 20:41

『林檎が丘読書クラブ』更新しました
NOVEL DAYSで連載中の『林檎が丘読書クラブ』を更新しました。

今回の課題図書は、ヤスミナ・カドラ『テロル』です。

『テロル』編は全5話で完結、おまけとして次回予告が1話あります。


昨年10月7日のハマースによるテロ事件があって、今回の本が選ばれました。

前回の『真夜中の子供たち』はあらすじを追うだけで大変な長編でしたが、今回の本は長さがちょうど良かったので、より深い分かち合いができたように思います。


本書を未読であっても、議論の内容がわかるよう、本文の引用やあらすじの解説をできるだけ多く入れてみました。(既読の人にはちょっとくどいかも)

中立であるよう心がけたつもりですが、上手く伝わればよいのですが……

皆さまにとってパレスチナとイスラエルを身近に感じる一助になれば、幸いです。


ここからはあとがきというか余談です。

出版社のミルトスから「謹呈」と書かれた封筒が届いてですね。

開けてみると、ミルトス社の隔月雑誌『みるとす』2023年12月号が入っていました。

10月7日から始まったガザ・イスラエル戦争の具体的かつ専門的な分析・解説が寄稿されており、とても勉強させてもらいました。

ありがたく無料で読ませてもらいましたが、年間購読すると3600円だそうです。

出版社もふだんはこんな風に無料で配ったりしないでしょうけど、イスラエルの立場からすると日本は偏向報道なので、被害の実態をもっと知ってほしいという切実な思いがあるのでしょう。


ガザ地区に関するニュース映像は刺激が強すぎて、意識して視聴しないようにしていましたが、文字情報として読んでも、やはりショックが強いですね。

みるとす誌で佐藤優さんがこう書いていました。

「ハマスのテロはユダヤ人であるというだけの理由で殺害を認める属性排除の論理に基づくものです。ハマスはナチスと同じ発想をし、行動しているのです」


なぜテロリストは生まれたばかりの乳児まで平気で殺害できるのか、わたしには理解できませんでしたが、「属性排除の論理」という分析に腑に落ちる思いがしました。

ハマースは「イスラエル殲滅」を公式に掲げる組織です。

サイードやアモス・オズはユダヤ国家とパレスチナ国家の共存の道を模索していましたが、ハマースは「共存」を目指してない。現にそこに暮らしているユダヤ人を皆殺しにしたいと思っているわけです。今回のテロで、ハマースはイスラエル国籍を持つアラブ人たちも「裏切り者」として殺害しています。

自分たちの生存権を認めず、ナチスと同じ論理で行動するハマースと、イスラエルが「共存できない」と考えるのも当然のことだと思いました。



昨年末に、パレスチナ・オリーブさんが発行する機関誌「ぜいとぅーん」第75号(2023年12月15日発行)が届きました。

こちらでは、10月7日以降のパレスチナ側の状況が詳しく書かれていて、読んでいて悲しい気持ちになりました。

わたしは学生の頃からパレスチナ・オリーブ代表の皆川万葉さんの活動を応援しているのですが、皆川さんのルポを読んで思うのは、「共存」を願っている人々は必ずいるということです。


パレスチナ・オリーブさんが取引している「ガリラヤのシンディアナ」は、アラブ・パレスチナ女性とユダヤ女性がともに運営しています。地道な活動を三十年続けている団体です。

ハマースが目立ちすぎているせいで、全パレスチナ人がユダヤ人絶滅をのぞんでいるかのように見えてしまいますが、決してそうではないということです。


そうは言っても、イスラエル領内でのユダヤ人によるパレスチナ人に対するヘイトクライムは頻発しているし、イスラエル企業によるパレスチナ人労働者の解雇も急増しているそうです。


いくら「共存」をのぞむ人々が地道な活動をしても、こういう平和な運動は暴力に弱く、憎悪が憎悪を生むのだと思い知らされ、無力感しかないです。


2024/04/01 20:37

プロフィール

ロシア文学が大好きです。 2012年2月からロシア語を勉強しています。

NOVEL DAYSで活動中です。
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