キリシタン訳「主の祈り」
マタイによる福音書 6章9節-11節
てんにましますわれらが御おや
御名がたつとまれたまへ御代きたりたまへ。てんにおひてごおんたーでのままなるごとくちにおひてもあらせたまへ。われらが日々の御やしなひを今日われらにあたへたまへ。(「どちりな・きりしたん」に掲載されている1592年頃の日本語訳)
天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、 天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(新共同訳)大河ドラマ「真田丸」第45回では、キリシタン武将の明石全登がこのキリシタン訳「主の祈り」を唱える場面が描かれていた。
キリシタン時代の「主の祈り」は、ポルトガル語の入り交じった訳文になっている。
「ごおんたーで」という言葉は、ポルトガル語のvontade(意思)をそのまま音訳して平仮名表記し、尊敬の意味の御をつけ、「御おんたあで」と訳出したもの。
ポルトガル語のSeja Feita a Vossa Vontade(あなたの意志が行われますように)という文だが、「あなた」すなわち「神の意志」を表現する言葉がキリシタン時代の日本語にはなかったのだろうか。
「ごおんたーでのままなるごとく」という訳文からは、翻訳者の苦心が窺える。現在では「みむねが」「御心が」という表現が定訳で、新共同訳では「御心が行われますように」と訳出している。
また、このキリシタン訳で、神への呼びかけを「父よ」ではなく、「御おや」(御親)と訳出していることは、注目すべきだ思う。「親」という言葉には「父母」の意味も含まれている。
さらに、「御国」(みくに)ではなく、「御代」(みよ)という訳語は、領土的な概念ではなく「神の支配」を表現する名訳だと思う。