節分の鬼と豆
五来重『仏教と民俗 仏教民俗学入門』よりまとめ
平安時代には方相氏の追儺はあったが鬼を追うことはなかった。
紀貫之『土佐日記』では、イワシではなく「なよし」(鯔)の頭と柊を門口に挿しているが、鬼も豆もなかった。
平安時代の末の『中右記』に大治5年正月の円宗寺修正会鬼走(しゅしょうえおにはしり)として、鬼が出てくる。鬼とともに龍天や毘沙門天も走る。
奈良の薬師寺と法隆寺の修二会(しゅにえ)には、鬼と毘沙門天が走る行事が今も残っている。
今日のような節分の鬼というのは、この仏教年中行事の、修正会と修二会の呪師(しゅし)芸からおこった。この鬼は悪者ではなく、逆に悪魔払いや厄払いの修法をした。
豆を打つというのは、室町時代の『花営三代記』(応永32年)に書かれているのがはじめだが、今日のように鬼を打つことはない。
『塵添壒嚢鈔』では、京都の美曾路池(美泥池)の鬼穴を封じるために、三石五斗の大豆で鬼を打ったという伝説が書かれている。美泥池の鬼塚は、かつては付近の村人が節分に炒り大豆を紙へ包んで塚にささげていたが、現存していない。愛知県の滝山寺の鬼祭で、鬼塚に炒り豆をささげるのも、同じ意味の祭りである。
京都の近郊では、厄年とされる19歳の娘は大豆20粒を紙に包んで体をなで、厄を豆にうつして、深夜に人に見られぬように、道の辻へ捨ててくる、という風習があった。
先祖が鬼だと伝えられている九鬼家では、家老が炒り豆を包んだ紙で当主の体をなで、外へ捨てるという風習があった。
節分の豆は鬼を追いはらうものではなく、厄をうつしはらうものだった。
同じく鬼を先祖と伝える、但馬香住町(現、兵庫県)の旧家、前田家では、節分の夜に「鬼むかえ」という行事をする。奥座敷の床の間で「鬼の膳」をそなえ、「鬼の寝床」をしいてお迎えする。これは節分の夜に祖霊をむかえまつる先祖祭である。
節分の年越は、旧暦の大晦日の年越よりも古い年越の行事だった。『徒然草』十九段には大晦日に先祖の霊が鬼の姿でおとずれたことが書かれている。節分の鬼は、じつは先祖の霊のおとずれであった。
しかし、仏教が鬼を邪悪なものとした影響で、今や先祖の霊が厄をはらってやろうと子孫に近づいたとたん、豆をなげて追いはらわれる。
京都の壬生寺では節分に、狂言「節分」が無言で演じられる。節分の夜に後家が一人で暮らしている家に鬼がしのびこむ。後家さんは酒をのませて鬼を酔いつぶし、打出の小槌と隠れ蓑を取り上げる。そのあげく、豆を打って鬼を追い出してしまう、という筋書き。
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【感想】
中国の文化では「鬼」は死者の霊魂を意味する。古代の日本には、
鬼=「疫病や災禍をもたらすもの」
鬼=「先祖の霊」
という文化背景の異なる二種類の考え方が伝わっていたのではないか。そのうち、「鬼=先祖の霊」とする文化は、一部の旧家で風習が残るのみで、現代の日本では完全に廃れてしまった。
今日の節分の鬼は「先祖の霊」ではなく、「疫病・災禍をもたらすもの」を意味しており、追いはらわれる存在である。
豆が自分の厄をうつす身代りであるなら、その豆を食べてはだめなのでは? なぜ現在のように年の数だけ豆を食べると健康長寿という意味に変わったのか、疑問が残った。