るるせの殺伐☆飼育箱

「男性として欠如している」という問題
床屋で髪を切ってきた。神社の前を通ったのだが、桜詣、と書いてあった。いろいろなイベントがあるんだなぁ、と思った。ちなみに揶揄したいところだが、家がその神社の氏子だったり昔、祖父が氏子世話役だったが世話役ってやりたいひとがとても多く、祖父が亡くなったときに僕の家はそういう地位的な奴は全部手放した、と聞いている。その関係もあるしうちの父はそれに加えてホテルマンだったので、日本のしきたりはやたら詳しい。が、僕は東京から帰郷するまで父の姿をほぼ見たことなかったので(あとはガキの頃に夫婦げんかに巻き込まれて吐瀉したりドメスティックなバイオレンスを受けたりした記憶しかない。ちなみに母のドメスティックな奴は物理攻撃以外に、言葉で呪詛を唱えているのも相まって、とても怖かったし今は、「おんなひとりで生きるというのはつらいことなの」と言うときにガキの頃に唱えていた呪詛を思い出し本当は吐きたくなるのはここだけの秘密である)よくわからない。男性は頭悪いんじゃないかくらいに即物的に、物理的に殺そうとするが、女性は呪殺や長期的な計画殺人になるイメージだ。ここらへん、僕にはわからなくて、女性を観ると男の影がちらつくことが多いが、男性原理って性別が男って意味ではないし、ガイア理論って母性原理っていうところがある。例えば僕は基本的に裸にはなれないし、それは意味があってのことだが、母と女性はイコールではなく、なれない身体であった場合、それはもちろん女性という性別じゃないとわからない問題なのだが、僕が裸になれない理由は、ある種のフリークス性の問題であり、「男性として欠如している」という問題である。が、これは嘲笑の対象となるし、女性と母性と身体としての母、という問題系と僕の中では接点があるが、まずしゃべることは出来ない。反吐が出るような問題だが、純文学のテーマとはなり得るので、考えることはしていこうと思っている。

2024/03/24 17:49

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