対話篇

前に書いたかもしれないのですが、僕は海外文学は米文学から入っています。歴史コンプレックスがあるのではないか、と言われている米文学ですが、まあ、その流れを追うのは、表面をなぞるなら、無学な僕でも行けるし、「不良文学」筆頭である「米文学」だからこそ、僕みたいなやつが入って行ける余地があった、ともいえる。とはいえ、僕は語学力がありません。母国語すらおぼつかず、特に日本語の敬語が壊滅的なので、日常会話ですら、支障をきたしています。病気(と副作用)で上手くしゃべれないってのもあるけど。ヨクトパトーファやネイキッドランチにパーマーエルドリッチ。くそったれな少年時代が続いているような僕は、オウエンのために祈りでも捧げようかと、熊を放つが如くにガープの世界に入っているところです(パラフレーズした作品、全部わかったら笑えるでしょ)。祝祭日は移動するかのように。……それはともかく、そういうわけで、重力の虹な方向ではなく、アーヴィングの作品という〈物語〉をストラクチャー的に摂取しているのです、今。坑道のカナリヤ理論の弟子、アーヴィング。実は昔、僕の友達のお父さんである打海文三氏の家で、アーヴィング『熊を放つ』のハードカバーを広げながら彼と会話したことがあります。打海氏のアーヴィング評、聴きたいひともいるでしょうが、教えませんよーっというね。しかも珈琲フロート・ダークリーにひっそりと僕が今書いているなんて、打海ファンの何人が気づくでしょうか。誰も気づかないんじゃないかな。でも、それでいいや。遺族の人が悲しむかもしれないから、氏のことにはできるだけ触れないようにしている(し、マウント取ってる風に思うひともいると思う)ので、僕が書籍化作家にでもならない限り、情報は出さないです。はい。こんがらがってしまいましたが、久しぶりに純文学を読んでいるのです、アーヴィングという米作家の本を翻訳で。今の僕が読むべき作家だ、と判断して。楽しいです。泣きたくなるくらいに。性的にコンプレックスのある僕だから刺さるのかとは思うし、顔をしかめる方も多いでしょう、特に今の日本では。でも、こういう作品を読まないと癒されない心もあるし、僕はそれで得たものは大事にしまうんじゃなくて、自分の小説にどうにか取り込もうとする。サガ、ですよね。そして、この文章は消されたくないので、保存しようと思います。僕のNOVEL DAYSで消えてるのがありますが、あれは自分でそうしただけです。消えたか消されたかしたのは、この珈琲フロート・ダークリーの、ひとつ前の記事だけです(笑)。保存してないので、自分でもわからない。闇に消えました。僕の人生、そんなんばっかや。では、この記事が消されないことを願いつつ。

2019/12/08 20:38

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