日々ログ

白骨の御文
先日、義父(夫の父)が急死し、あまりにも急だったものですから、警察の事情聴取、ご遺体の引き取り、義父の職場への連絡、通夜・火葬・葬儀と目まぐるしく、矢のように過ぎた日々でした。

生前の義父は親鸞さんが好きで、『歎異抄』をよく読んでいたということで、浄土真宗のお寺におみおくりをお願いしたのでした。


通夜とお葬儀でお坊さんが最後に読んでくださったのが、蓮如上人の『白骨の御文』でした。

わたしは浄土真宗のお葬儀に出席するのは今回が初めてで、昨年にわたしの母が亡くなった時は曹洞宗でしたので、そのときのお坊さんは『修証義』を読んでおられました。


「されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という『白骨の御文』の言葉を聞いて、朝には元気だったのに夕方には亡くなっているというのは、まさにこのたびのお義父さんのことを言っているように感じました。


わたしが2021年に書いた『「埋もれた日本」はどこにある?』の「2.「熊野の本地」は、本当に日本人のキリスト教受容に影響を与えたのか?」で、この『白骨の御文』について取り上げていました。

2021年当時は、こんなことを書いていました。



蓮如の無常観は、『方丈記』や『徒然草』の「世を儚み、世を捨てる」無常観とは異なる。

『白骨の御文』には、「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」と説かれている。

蓮如は、無常であるがゆえに世を儚むのではなく、無常である現実を直視し、積極的に生きることを説いたのだ。



こうして自分で読み返してみると、朝には元気でいても夕方にはもう亡くなっているかもしれないから、一日一日を大切に生きなければいけないのだな、と改めて思います。


今回、ご縁がきてお浄土へ行ったわけだけれども、そのご縁が十年後にくるのか、明日くるのか、誰にも分からないものです。

お葬儀の法話の中で、お坊さんはそんなことをおっしゃっていました。


そうは言っても、悲しいものは悲しいですよね。

昨年、わたしの母が急死したあと、母と一緒におしゃべりしている夢を見るようになりました。夢から覚めて、ああ死んじゃったんだと気づき、涙がでるのです。

そういうことが三カ月ほどつづいたのでした。


わたしの父は人前で涙を見せることはありませんでしたが、妻を亡くしたショックと言うのはすごく大きいものだったようで、眠れなくなり、食欲がなくなり、結果的に帯状疱疹と十二指腸潰瘍になってしまいました。

最近になって、父の体調も落ち着いてきたようにみえます。


母が亡くなった時に、夫がたくさん支えてくれたので、今度はわたしが夫の手助けを精いっぱいできたらと思っています。


2023/02/12 12:20

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