年寄りなのでもうみんなに労られてへらへら生きたい!!

(※以下、ぼくの書き込みのコピペ①です。)



以下はぼくの勝手な話なので、超・完全スルーでいいです。横からちょっと自分の考えを書いておきますって程度ですので。


>生命の連続性


この「生命の連続性」という類の抽象的概念が幅を利かせていますよね。しかもこの生命の連続性なるシロモノは、社会的正義・政治的正義と大いに合致しているから始末に置けないところがあると感じていました。

自分、そういう政治的正義が絡んだものは胡散臭く見てしまうタチで、いつもならその時点で思考を放り投げてササッと身を隠してしまうのですが、ここでは作品作りということもあるため、自分が思うところをつらつらと書いてみます。


ラッセルさんは体制側の方なので、この生命の連続性という視点は、哲学として言い切ってしまっているように思います。

ですがこの問題は哲学であるべきじゃなく、究極的には科学として究明されるべきじゃないかと思うのですね。哲学0%、科学100%の割合で検討されるべき議題かなと思うのです。


そこで遠大な連続性ということを想定したときに、そもそも人はどこから来てどこへ行くのかみたいなまるでNHK特番チックでこれまた胡散臭いロマンチックな話になりがちなのですが、そうじゃなくて、自分はこのあたりは量子論が答えに近い(少なくとも現時点の科学では)と考えていまして、その観点からいくと、歴史というのはそもそも一方通行じゃないわけですよ。過去も未来も現在も、直線状に、一方に流れているものではなくて、一つのプログラムとして描き出されたものが我々の目の前に提示されているだけであって、連続性なる視点が科学的に間違っているのではないかなと思えるわけです。我々の意識は漠然とした連続性があると思いこむようにプログラムされているかもしれませんが、そこが究極的根源というわけでありません。


今回我々が取り組もうとしているのは人生のゲーム化ですが、実際のところ本当に我々の現実はその手のシロモノでもありまして、宇宙は無限大に存在していて、どこかの何者かが無限の宇宙を勝手に創り出していると想定されまして、もしかしたら未来の誰かのスマホみたいなもののなかで100恒河沙もの宇宙と、そこに住む生命の意識が、とくにスマホの持ち主の意志などに関係なく、勝手に生成され押し広げられているだけではないかと考えることもできまして、プログラムですから過去とか未来とかぼくらが意識しているものも架空のものである可能性だって検討せねばならないわけで、何はともあれ巷で跋扈する「生命の連続性」なるシロモノから、政治性は排除すべきであり、真相を突き止めたければ哲学や宗教など介在させないべきであり、科学としての視点から着実に検討を重ねていくべきではないかなと思うわけです。


一種の基地外じみたお話だと受け止める人もいるでしょうし、どう受け止められようと別に構わないのですが、幸福なるシロモノを追求していくのならば、哲学と科学を平行したほうが、少しでも近いところに到達できるのではないかなという気もするわけです。まして生命の連続性という命題になってくれば、それは科学として見つめられるべきものであると考えるところであります。

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プロフィール

佐々木禎子(ささき ていこ)
作家。
札幌出身・東京と札幌を行ったり来たりしています。
1992年雑誌JUNE「野菜畑で会うならば」でデビュー。

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