日々ログ

はるか昔、どこかの新人賞の選評で「言っていいことと悪いことの区別もつかないのか」みたいなのがあったんですよ、誰かの小説を編集者が、そう評した。僕自身、完全にアウトなものばかり書いてきたから言えるのですが、それは、言っていいことと悪いことの区別じゃなくて、「書き方」の問題であることがほとんどなんですよ、何故ならノンフィクションじゃなくて小説だから。ほとんど、と書いたのは、アウトな表現は存在する、ということでもあるのですが。でも、小説を書いている以上は、ソリッドで刺激的な部分は必ず必要になってきますよね。少なくとも、僕はそう思う(懲りてない、とも言う)。そう思う僕はあたまのネジが吹き飛んだひとのように考えられています。「むむむ。ムカつく」と苛立つのですが、坂口安吾なんかタイトルが『狂人遺書』ってのがあるくらいで、同様に多くの文豪さんたちにはそういう要素がありますし、小説を書くひとはそういう方向に行くのか、それとも最初からそういう要素を持ったひとが小説家になろうとするのか、わかりませんが、まあ、哲人ソクラテスの最後だって、尋常じゃないわけですよ、こういう世界にはこういう世界のひとたちがいる、と考えたほうがよさそうです。ソクラテスを出すのはここでは違うだろう、という言い方もできますが、「人文」はすべて思考実験であるので混ぜても大丈夫、と僕は(大雑把にいうと)思っていて、それはWikipediaで「社会契約」の分類が思考実験になってることから推測するに、だいたいそういうことになってる、と考えてもいいからで、ソクラテスも、命を張って最後まで思考実験した、ともいえる(つまり小説も思考実験だろう、という言い方になりますが)。いや、「生きろ!」が、日本のスタンダードアニメのキャッチフレーズなので、見当違いのことを僕が言ってる感も漂うのですが。「言っていいことじゃないけど、これが言いたいんじゃああああああ」って、ありますよね。あるならば、うまく、言っていい感じの表現に直して、小説を書くのがいいと思うのです。奥が深いんだぜ、たとえそう思った末に文章を書いたら「ぱんつ! ぱんつ! ぱんつ!」とか意味不明な言葉の羅列になったとしたって。彼、もしくは彼女は小説のなかではぱんつと叫ぶしかなかった、ということです。一時期、小説投稿サイトがぱんつという言葉の海になってしまったことがある、と伝えられていますが、もちろん、その頃の僕は妹のぱんつをかぶるお姉ちゃんの出てくるまんがを読んでいたので、これを「是」としました。読者とはなんぞ、という問題も生じますが、一番大事なはずのそこを振り切ってさえ、ぱんつという単語を出すしかなかったのでしょう。二十世紀の世界文学が性の解放の歴史であり、必然的にそれを継承した、日本のまんがや小説で、百合やBLに若いころから親しむことになった身としては、あたまおかしいと言われながらも(BL読んでたら誤解されまくったのでした!)、こうしてこんなご時世に、こんなことを書いてしまうのです。共生と性癖って、ゾーニングされた世の中でも、だいぶ相性が悪そうで、なぜなら「作者」が「危険人物」と目されてしまうからなのでは、と思うことがあります。存在自体が有害なのである、みたいな。「どうしろって言うんだ、書かないしか方法がないのか?」とかなんとか、話が戻ってしまうしそれは意味がないのでここらへんで文章をおしまいにしたいのですが、物書きは、いつも肩身が狭いんだな、ということを、一応、言いたかったんですよ。肩身が狭いのか、自分で狭くしてるんじゃねーの、と思われているだけなのかはわかりませんが。表現の道は険しいのです。でも、言いたいことがあるから書いていて、それが時に、書いてはならないことだ、でも書くしかない、ってこともあり得る、というお話でした。

2018/10/06 19:56

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