生き方

努力という媚薬
私はオッサンである。

そして、オッサンである以上、若人に指導する立場になることもある。


今でこそ、若人と一線を引いているオッサンであるが、

その昔は若人と一緒になって騒いでいた。

今はもう、身体のアチコチがボロボロで、

体力的に一線を引かざるを得なくなっただけである。


それでも、まあ、指導している若人たちは、私を誘ってくれる。

飲み代がないからなんだろうなーと苦笑しながらも、

体調が良ければ付き合うようにはしている。

そういう時、私は一次会でサックリと帰る。

二次会からは若人だけで楽しみなさい、と。

自分自身で飲み足りない時は、独りで行きつけの飲み屋に行く。

若人には若人の楽しみ方ってぇもんがあると思ってるからね。

なにより自分自身が若かった頃、しつこいオッサンが嫌いだったからさ。


年に何度か、若人とサシで飲むことがある。

若人から、真剣な相談がある時だ。

これが、けっこう気力体力を持っていかれる。

なぜなら、自分ひとりだけの気ままな酔っぱらいではなく、

大人として、オッサンとして、若人に向き合い続けなくてはならないからだ。


で、真剣な相談をしてくる若人っていうのは、実に真面目なのである。

いい加減だったり、適当だから、苦境に陥ったのではない。

真面目だったり、まともすぎるから、苦しんでいるのである。

そして、そういう若人ほど、努力をしている。

人一倍努力しているし、若い頃の私なんか比べ物にならないほど努力している。


でも、私はオッサンだから、知っているんだ。

その努力が、自分でしたくて、した努力じゃないって。

「努力しなくちゃ」って強迫観念であったり、

「努力すればなんとかなる」っていう呪縛なんだよね。

そして、そんな努力って媚薬でね。

努力すればするほど、自分を虐めれば虐めるほど、

成功するって妄想(ゆめ)を見せるからタチが悪い。


オッサンは、断言する。

強迫観念からの努力や、

呪縛からやっているだけの努力は、

絶対に身にならない。


努力ってね、自分が「努力している」ってヒロイズムに浸っている限りは、無駄なの。


逆に、自分では努力と思わない努力。

好きだからやっているだけの努力。

夢中でやっているだけの努力。

これを続けられるかどうか、だけなんだ。


誰かに「やれ!」と言われたからやってる努力に、なんの意味もない。

誰かに強制されてやっているだけの努力なんて、絶対に身にならない。


努力が苦行だなんて、誰が言った?

多分、小中学生の教師や、高校の部活顧問なんだろうなあ……


若人よ。

どうせ、努力するなら、自分のために努力しようぜ。

面白おかしく、楽しんで、努力を努力と思わない気持ちをもとうぜ。

そうすれば、悩みはいくつか減るからさ。


もし、やりたくない努力をやらされてるな、と思ったら?

やめればいいじゃん。

やって苦じゃない努力をすればいいでしょ。


人生って、そんな生き方でも、あんまり困らなかったりするもんだよ。

2018/08/26 15:02

レジリエンス…折れないこころ
なぜ、オッサンは「くだらないダジャレ」を言えるのか?

単純に恥がないからなんだよね。

「ウケなかったらどうしよう?」とか「ウケなくちゃいけない!」みたいな

背負っているものがないから、馬鹿にされても仕方がないダジャレを言える。

背負っているものの正体とは自意識なんだけれども、


オッサンは、正しい自分とまでは言わないが、まあ妥当な自己評価を持っている。

オッサンなのだから、

自分がナニをできて、

ナニをできないか、

わかっているんだよ。

オッサンとなるまでに何度も何度も失敗しているからさ。

大事なことはなにかといえば、失敗しても、また立ち上がるってことなんだな。


この「立ち上がる」ってのは、実に大変なことで、

立ち上がる大変さを知っているから、

最初から転びたくもなくなるって気持ちもわかる。

でもさ、オッサンも若い頃から、

転びたくて転んだわけでもなければ、

失敗したくて失敗していたってわけでもないんだな。

結果として転んじゃっただけ、失敗しちゃっただけであって、

立ち上がらざるを得ないから、何度も立ち上がってただけなんだ。


オッサンになってから、若い頃の自分を思い返すと、

もう恥ずかしいことばっかりで、生き恥ばっかりなんだよね。

ただ、恥辱まみれの人生の中でわかることってあるんだ。

全てが、自業自得ってわけじゃない

明らかに、自分のせいじゃなくても、自分が悪かったとされることもあるってね。


冷静に考えりゃ、簡単な話なんだよ。

責任っていうのは、自分に権利があるから発生するんだ。

たとえば、ふたつの箱があって、右を開けるか、左を開けるか。

その開ける判断が自分自身にあるなら、箱を開けた後の責任は自分にあるだろう。

箱を開けないって判断まで含めて、自分にあれば、って前提ね。

でも、若い頃は、その判断する権利をもらえないんだ。

「右の箱にしろ」「左の箱にしろ」って、命令されることばかりなんだ。

それで開けた箱がミミックっていうモンスターだとしても、

「開けたのはオマエだ。開けたオマエの責任だ」ってのが世間なんだな。

この時、若者は生真面目に「そうなんだ」と思っちゃう。

「しょうがないよな。開けちゃったのは自分なんだもん」と。


そもそも、日本人って生真面目すぎるんだよな。

最低時給には、最低時給に見合った勤務態度でいいんだよ。

最低時給に、丁寧な言葉遣いや態度まで求められても、応じちゃいけないんだ。

400円しない牛丼を出して「なんだ、この牛肉は!」と言われても、美味しい牛肉を食べたいならグラム800円出せや、で話は終わる。

でも、人件費だけは違うのね。

笑顔も言葉遣いも立ち居振る舞いも、無料だと思われている。

だから、最低時給のファストフードであっても、

ホテルの高級レストランと同じおもてなしをしろ、

という理屈がまかり通っている。

「バイトであっても、働く以上は社員と同じだけ働け」

いやいや、違うだろってーの。

社員と同じように働いてほしいなら、社員と同じ待遇を与えろよ、って。


レジリエンスって言葉がある。

心理学において、逆境力や再生力や復活力なんて意味で使われてるんだけども、

「ストレスやトラブルで、自分の本質が傷つかないようにする」ってことなんだよね。


まず、正しい自己評価をする。正しい自己肯定をする。

そして、そうやって意識した自分を守る気持ちを持つこと。

日本人は、社会生活において、

自分を卑下するのが美徳と思われてるけれど、

内心において自分を大事にすることは悪いことでも何でも無い。

そもそも、内心の自由って言葉を知らない人が多すぎる

憲法で保証された思想・良心の自由とは、内心の自由そのもの。

他人が、他人の内心を変えようとするのは、いわば洗脳だ。


自分自身で守るべき内心を理解したら、

次に第三者的な客観性を保つ訓練をする。

さっきの「自分に判断の権利がないものに、結果の責任は伴わない」だ。

トラブルの責任を求められた時、

その環境や立場としての謝罪はしてもかまわない

しかし、自分の自業自得でないものに対して、

その立場以上の謝罪をしてはならない。

そんな誠意には、サクリファイス(自己犠牲)以外の、なんの意味もないからだ。


わかりやすく言ってしまえば、

心優しき善人が陥るストレスの大半は、

無意味なサクリファイスによる自傷みたいなものなんだ。


それは美しい生き方かもしれない。

すべての人が、サクリファイス前提で生きているなら、お互い様だ。

が、そんなことは絶対に、ない。

サクリファイスする心優しき善人は、少数派なのだ。

多数派とは、自己犠牲どころか、自己防衛を前提に生きているし、

その自己防衛は「やって当たり前」のことであり責められることではない。


ちょっと厳しいことを言うならば、

自己犠牲してストレスを被っている人とは、

好きで泥沼に首までドップリ浸かっているだけ。

普通の人は、泥沼に足を踏み入れるどころか、

最初から泥沼を避けて快適に生きているのだ。


だから、自分自身を守るために、客観性を持ちなさい

自分の責任ではないことに、一喜一憂しなさんな。

オッサンは、そういう生き方をしているから、

オッサンになるまで生き延びることができたのだ。


そして、傷ついた時こそ、自分の素晴らしさを認めてやりなさい。

自分を責めるのではなく、自分の良さを、自分自身で認めなさい。


まあ、そういうわけで、若人よ。

常日頃からダジャレを連発して、

くだらないオッサンになれるよう努力してみたまえ。

守るものは、自分の内側にあればいいんだよ。

外側に守るものを持つと、辛いばっかりだし、

守るものを意識できない生き方は、虚しくなってしまうのだから。

2018/08/26 14:23

プロフィール

漫画原作者志望。
共同名義にて、漫画原作経験あり。
TVアニメーション2クールのシリーズ構成経験あり。うち脚本担当話数15話。
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