次回スピンアウトの前口上。
*でも長ったらしいので省く。ここにおいておく。謝。崇。
表象(メタファー)のすべては、喩えの背後には、なんらかの現実か事実が横たわている。
それはかってあったこと、もしくは現在進行中のこなにか。
そのことに際しての印象の表しなのだ。
なにか微妙にして格別なまでに特殊と覚えられた。
そこにあった真髄たる意味はどこまでもいっても精妙なるがまんま。
そうこころに直感されたるもの…。
ことにおける、その核心たるもののみを抽出して要約して語らんとするならば、
まったく違う意匠を用いるしかなくなる。
こういった操作としての努力がなされるのは、
その事態がよっぽどのことだったからだ。
ことに接した人たちにとって…。
当人たちにとって、その出来事は忘れがたく、言わば、まるで…
エニグマ、トラウマ、奇跡としか言えないようななにかだった。
あまりにも稀なことで、人類のすべてにとっての大事な情報と思われたので、
後世の人々にそれを伝え残そうとした。(表現、芸術たるものは、元来、すべて、
この目的に仕えるべくして起こった。余興の時間つぶしの為にではない。)
あったことの全体を、そのすべて語ることは不可能だ。
構成要素があまりにも膨大すぎるので。
かつそんなことをすればことのポイントたものが曖昧になってしまう。
かえってボケてきてしまう。
だからエッセンスだけを取り出して再構成することにした。
以前にゴジラとか怪獣、そしてウルトラマンの正体とは何であるかを明かししてみた。
ズバリを言えば【阿羅漢】たちだよ。
あれらを根幹として、その具体的な真実としての正体は、ずらしたり変更してはならない。
戦争、つまりは他人/他部族/他民族/他国家からの侵略行為は、
普遍的で、かつ恒久的なる現象なのだから。
天災、人災も同じくしてなくなることはない…。
いつもだれかが
『おのれ~バックフランめーーー!』なのだ。
組織だった人々による全体的な現象で、それには違いなく悲劇が伴うので、
解決救済を求めるならば、その対象は神や仏としかならないのだ。
『救世主よ、今こそ来たれよー!』は永遠にヒトの思い願いとしての祈りなのだ。
補足:
この変換行為には確かなる理解とセンスが必要とされる。
また後代に伝えねばならないとの使命感がないとできない。
中途半端にやれるものではないのです。
その営為の本当の価値はときが教えれくれる。
それのみが評価し裁くことができる。
問題はだっッ!それを悪用するものたちの存在だ。
【型】そのものをモディファイして、新たに肉付けして、商品化するものたちの存在だ。
恣意的なる切り継ぎ切り接ぎの横行となってる。
彼等が果たしたそのデタラメ三昧は、バベル(混乱)たるものをヒトの意識に植え付け、
そして構築するものでしかない。そのことの結果に対しての責任は重い…。
ネットには解説動画が溢れてる。元々のその内容がメチャクチャなのに、表面の情報コード、
それも断片において、なんたらかんたら勝手に意味を掘り起こしてきて、隠された意味としてはこうなんですって語ってしまっている。デタラメにおいて自分でも分からんこと信じちゃいないことを整合感のみを頼りにし果たそうとする。だから、余計にメチャクチャが増幅しいってしまうばかり。解説者本人も何を自分が言っているのか分かっちゃいない。知的なパズル気分なんだろね…。
でもね、薄弱なる人々において、まだ理解の浅い人々においては、
間違いなく悪しき混乱の種を蒔くに等しい行為なのだ。
カタリ派、グノーシス主義者の発生は非常に際どい現象でしかなかった…。
そもそもからして、キリスト教における世界観は日本文化からすればあまりにも別枠なのだ。
その物語に生きているヒトは少ない。またその舞台そのものに立って、生きているヒトなど
いないにも等しい。
それは世界大戦をもって世界共通の当たり前となってしまっている。
でも日本は島国なので、大方は旧来のままの日常に生きている。
それでいいと何故か自分なんかは思うのさ…。